杞憂、はたまた核心。

思考の嗜好性を垣間見せ

人を好きになった方がいい。

あなたには好きな人、もしくは愛する人がいますか?

そういった人がいるのであれば、それは本当に幸せなことだと思います。

 

これは僕の経験上の話ですが、自分が何をしている時に幸せと思うか、もしくは気持ちが満たされるかということを考えた時に、やっぱり誰かのためを思って何かをしてあげた時がなんだか高揚感を感じます。

 

それが、自分が気になっている人や好きな人、愛する人であれば、なおのことでしょう。

 

人のために何かをするのが気持ちいいというよりは、自分がこの人のために何かしてあげたいと思って、何かをするときに気持ちがよくなるのだと思います。

 

その相手は必ずしも一人じゃなくてもいい。

自分ができる範囲で、誰かのためを思って行動できるのは本当に素晴らしいことだと思うし、また、非常に自分自身嬉しいことだとも思います。

 

だから、まず何より誰かのことを好きになってみる。

これが大事だと思います。

 

好意を寄せられて嫌な気持ちになる人はほとんどいないと思います。

まぁ、その好意の種類や方法によっては嫌な気持ちになるかもしれませんが、それは好意とは似て非なるものだと思いますが…。

 

とにかく、純粋に人を好きになること。

でも、それが案外難しい人もいるでしょう。

 

そういう人はまず、自分を好きになることから始めなければいけないですが、そもそも自分に自信がないから誰かに好意を持ってもらって初めて自分のことを認められて、そうすることで他人を好きになれるという人もいるでしょう。

 

結局、誰かを好きになるということは、幸福感が得られる反面、傷つくこともあるということです。

 

やっぱりどうしても期待してしまいますしね。

でも、そんなあなたにもきっと価値は間違いなくあって、誰かを好きになれるし、誰かから好きになってもらえるはずです。

 

しかし、こう言葉ではわかっていても、心からそれを確かめる術がないというのもわかります。

だからこそ、根拠のない自信が必要なのかとも思います。

 

僕は本当に自信がない人間ですが、それでも誰かが勇気付けられるのであればと思い、こんな文章を綴ってみました。

 

根拠のない自信。ほしいですね!

一度愚直になってみるのもいいかもしれません。

互いに試行錯誤して幸せになりたいものですね。

 

結局、ポジティブとネガティブが共存する記事になってしまいましたが、そのくらいのバランスの方が人間らしくて僕は好きです。

 

僕は弱いし、あなたも弱い。

でも、強くなれる時もある。

好きな人たちのために強くなりたいものです。

 

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人は生まれながらにして平等なのか。

人は生まれながらにして平等ではないだろう。

そう思っている人は結構多いんじゃないでしょうか。

 

そんなものは理想論だと思ったり、経済的に豊かな家庭に生まれれば、その時点で勝ち組だと思われたり。

 

そんな思想の人は結構多いと思います。

 

しかし、一度立ち止まって考え直してみましょう。

そもそも「平等」とはどういうことなのか。

我々は言葉を自由に使用してると思いがちですが、実のところ、言葉の意味を明確に定義付けられる人は少ないのではないかと思います。

 

平等とは簡単に言うと、「皆が一様に等しい」ということです。

しかし、ほとんどの人はやっぱり平等ではないと感じます。

かといって、「人は生まれながらにして平等である」という前提が間違っているというわけでもないのではないでしょうか。

 

僕は、ここに認識の違いがあるのではないかと思います。

 

多くの人が思っている平等というのは、主に経済的な側面が大きいと思います。

 

ごく僅かな資産家が多くの富を蓄えていて、大多数が残り僅かの富を分配しなければならない。

金があるから自由に振る舞える。

そんな風に思っているのではないでしょうか。

 

実際、それなりにお金というものは大切だとは思いますが、それではあまりにも拝金主義的であり、それが故に共産主義的な考え方とも言えます。

 

しかし、本当に経済的な面に対し、平等を謳っているのであれば、ほとんどの国家は共産主義国家になっているはずです。

 

それでも、現状、資本主義国家が多数派ということは、ここで掲げられている「平等」とは、経済的な平等ということではなさそうです。

 

では、一体なにが平等なのか。

 

ここで、世界人権宣言の内容を確認しましょう。

第一条
 すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

 

ここにある程度納得のいく答えが記されています。

 

平等の正体とは、「尊厳と権利」についてです。

「尊厳と権利」については、また機会があれば考えたいと思いますが、とりあえず今回は平等の正体について考えましょう。

 

我々が思っていた平等と本質的な平等が、全く別の意味合いで存在していました。

 

平等とはつまり、有様ではなく、権理通義のことなのであります。

 

これらについては、福沢諭吉著『学問のすすめ』に詳しく書かれているので、是非ともご一読ください。

 

 

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

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ラクして生きるにはどうするべきか。

みなさん、ラクして生きたいですか?

僕はもちろんラクして生きたいです。

 

思えば、今のところ割とラクして生きていると思います。

通勤時間は10分以内。

やりたくない仕事は出来るだけ手を抜く。

やりたいことを大抵の場合優先させる。

などなど、極力、ストレスを感じないように生きています。

 

僕は、ほとんどの人がこのように生きれる世の中が一番健全だと思います。

各々、やりたいことをやって、それが誰かの為になる。

そういう世界がストレスフリーで調和的で魅力的だと思いませんか?

 

では、具体的にこのような生き方をみんながするにはどうすればいいのか。

それには、勉強することが不可欠だと思います。

 

勉強というと、それだけで拒否反応が出る人がいると思いますが、それは「勉強」という言葉の定義付けが間違っているからなのではないかと思います。

 

ここでの勉強とは、学校でやるような勉強とは違います。

自分の人生にとって役に立つ知識や経験を積むことが本当の勉強なのではないかと思います。

 

まず、手っ取り早く勉強するには本を読むことが大切だと思います。

本には様々な偉い人の思想が現れています。

自分一人で悩んでいるより、本を読んで自分とは違う価値観の人の処世術を知ることが大切です。

 

しかし、本を読むことが苦手という人もいるでしょう。

そういう人は大体の場合において、日本語が上手く使えない人だと思います。

読み書きそろばんと言われるように、学習の基礎となるこの三要素は間違いなく必要です。

 

読むことが難しい人は、とにかくまず、読めるように国語を勉強しなければなりません。

しかし、それすらも勉強できない人はもう諦めてください。

そのまま、自分の身に降りかかる出来事をうまく理解できないまま、ストレスが溜まって生きていくしかないでしょう。

 

要するに、ラクをするには勉強することが不可欠だということです。

頑張らない為には頑張らないといけない。

 

しかし、本来勉強は楽しいものだと思います。

何か新しい知識に触れ、新しい世界の解釈ができるということは、非常に楽しいことだと思います。

 

僕は大体の場合において、本を読むか、ニュースを読むかしています。

ケータイではほとんどテキストしか見ません。

動画を見ることもほとんどない上に、ゲームもほとんどしません。

 

僕は、基本的にこの世に存在するものは自分の成長を促すツールだと感じています。

コンテンツそのものが目的となることはほとんどありません。

 

例えば、映画を観たとして、観て面白かったと感じることが目的ではなく、その作品を通して、自分のものの見方が変わることを目的としています。

 

つまり、気付きを重視して生きています。

 

だから、動画を見ることやゲームをする事で気付きが多く得れるのであれば、僕はそれらに時間を費やすと思います。

しかし、現状ではそれよりも多くの気付きを得られるものがあると感じているので、それらにあまり時間を費やしません。

 

こうして書くと、非常に意識が高いように感じられますが、そんなことはなく、気の赴くままに生きています。

 

ただ、せっかくなにかをするのなら、効率よくラクに生きられるようにした方が、人生得すると思います。

 

何か悩みがあれば、同じ悩みを抱えた人がいないか検索し、対処方法を学びます。

自分が抱えている悩みや問題、考えなどは、大体の場合において、自分以外の人も感じているので、調べれば大体のことはわかります。

 

それらを自分一人で抱え込まず、周りに目を向け、解決に結びつける方が圧倒的に効率が良く、ストレスもあまり感じなくて済むと思います。

 

そう考えると、自分が悩んでいることは周りにどんどんと言ってしまった方が、結果的に全員が得をするということがわかると思います。

 

基本的に、この世が生きづらいと感じている人は、なんでも自分一人で解決しようとするからだと思います。

無理なものは無理でいいので、どんどん周りを頼りましょう。

 

そして、そんな自分を正当化しましょう。

 

とは言っても、その行為が社会的な損失とならないようにすることは重要だと思います。

 

しかし、なにが社会的な損失か、もしくはなにが社会的に利益を上げることに繋がるのかわからない人は、やっぱり勉強するしかないと思います。

 

とにかく、手っ取り早いのは本を読むことです。

また、読んでインプットしたものは、すぐにアウトプットするべきだと思います。

やっぱり、ここでも読み書きそろばんは必要となるので、最低限それだけは身につけましょう。

 

読書の仕方がわからないという人は、僕と一緒に読書しましょう。

いつでも声をかけてください。

 

みんなで勉強して、より良いものは何かを考え、皆がラクして生きられるような世の中に、みんなで変えていくことが大切です。

 

みんなで変えるということも、具体的にどういうことなのか。

それも本を読み、勉強すると自ずと理解できると思います。

 

周りが自分になにを与えてくれるのかを考えるのではなく、自分が何か行動をし、自分が自分らしく生きられるように模索し、勉強し、集団に寄与していくことで、皆がラクになると思います。

 

誰かが何かをしてくれるのではなく、自分の人生は自分で責任を持って生きましょう。

 

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僕たちはもっとキレていい。

いつだって人を動かす原動力は、不満であったはずだ。

 

現状に疑問を持ち、それが嘘だと感じた時、俺は憤りを感じる。

そもそも、本当に正しいことが何なのかはわからないが、何が間違っているかはわかるはずだ。

 

例えば、人手が足りないからといって、残業続き、身を粉にして働かなければならない状況が存在しているとする。いや、今この現在、それはどこかで行われているはずだ。

俺はそれは間違っていることだと思う。

俺なら、自分が嫌な思いをしてまで、その仕事をする価値がないと判断できるなら、辞めてしまうと思う。

 

だけれど、そうでもしないと生活できないという人もいるだろう。

好きでやっているわけじゃないけど、生きるためには金がいる。だから、有無を言わずやるしかない。

必要悪だ。

 

そんな必要悪はいくらでも存在する。

酒、タバコ、ドラッグ、セックス、ギャンブル。

それらがないとやっていけない人は多い。

その人たちは、キレまくっている。

どうしようもない現実を。

受け入れがたい現実を。

それらを全てぶっ壊したい。

それでも、それすらもできない。

だから、自分をぶっ壊す。

どうしようもない自分を。

 

クソみたいな社会に憤りを感じているけれど、それをどうしようもできない自分に腹が立つ。

 

自傷行為はそういうもんなんじゃないかと思う。

 

わかった気になっているだけかもしれないけれど、そういう人もいるはずだ。

 

俺は、キレることは健全な証拠であると思う。

ただ、後は方法の問題だ。

ぶっ壊すのなら自分でなくて、クソみたいな社会をぶっ壊せ。

それができないと嘆き、自分を甘やかしていることにはどうにもならない。

 

救世主は現れない。

仮に現れたとしても、そいつを救世主だと思える心の余裕が必要だ。

 

そんな救世主を待っているのなら、誰かにとっての救世主でありたいと思った方がいい。

 

世界に対してキレろ。そして、それにキレてる自分にもキレろ。

世界が発展したのは、現状にキレた人がこれまでに存在してきたからだ。

その人たちが、これまでの常識を全てぶっ壊してきてくれた。

 

俺たちが今常識だと感じているものも、誰かがぶっ壊して、正しくないものになっているかもしれない。

今の常識が、これまでの時代になかったように、正しさはコロコロ変わる。

もし、今の正しさに不満を感じるなら、ぶち壊そう。

救世主は現れないかもしれない。

自分はどう思うのか、それが一番大切だと思う。

 

自分は大切にしたほうがいい。

異常な世の中をぶっ壊せ。

 

常に現状に疑問を抱いたほうがいい。

 

Doubt is the origin of wisdom.

 

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自分に同情するのは下劣な人間のやることだ。

俺はこの言葉に出会ってから、この言葉に込められた思想性を大切にしてきたつもりだ。

村上春樹著 小説『ノルウェイの森』より、登場人物の永沢さんの言葉だ。

 

自分に対する同情ほど、容易いものはない。

そうすることで、少なからず楽になるだろう。

だが、それは問題の根本的な解決になっていないし、あくまで仮初めである。

 

俺はその仮初めを受け入れること自体がどうしても不道徳であり、自分に対して真摯でないと感じる。

 

自分が弱いと思い込んで悲劇のヒロインになることは簡単だ。

しかし、そうしても事態は一向に改善されない。

 

そもそも俺も強い人間ではないが、自分で弱いと認めてしまうとどうにもならないので、自分に同情することは絶対にしたくない。

 

同情や共感、甘えなんて自分で求めるものじゃない。

その感情は他人へのセーフティネットとして機能するべきだ。

そして、一人の人間として、その他人からのセーフティネットに甘んじてはいけない。

 

要は気持ちの問題で、セーフティネットがあるから、大胆に行動できるようになる。

しかし、そのセーフティネットに居心地を感じてしまうのは自分にもその相手にとっても不誠実極まりないことだと思う。

 

「必要なものは理想ではなく行動規範だ。」

 

理想なんてものは仮初めだ。

道徳、つまり、自分にとっての行動規範こそが本質的だと思う。

 

その行動規範がない人間は自分に同情してしまう。

システムを作り、そのシステムを守り切れ。

その先にしか理想はない。

 

理想は誰かに与えてもらうもんじゃない。

自分で求め、自分で守りきらなければならない。

 

これは教訓だ。

 

誰かはわからない相手に向かって、それと同時に、自分にも言い聞かせなければならない。

 

日々起こる出来事は、何かしらの見識を与えてくれる。

それをどのように捉え、どのように役立たせるかは自分次第だ。

 

誰かにとってのメッセージになることを祈って。

 

 

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

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ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

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ほとんどの人は自由を欲しがってないんじゃない?

どうも、お久しぶりです。

 

さて、みなさん。

自由、欲しいですか?

そりゃぁ、自由、欲しいよ!って人が圧倒的だと思いますが、本当にそうですか?

 

現在、一時的に雇用されておらず、圧倒的に自由な僕が「自由って意外とみんな欲しいものじゃないんじゃない?」という考えに至った考察を惜しげもなくご披露させていただきます!!

 

自由ってステキ!

自由を必要としていないんじゃなかったのか?と、いきなり何言ってんだコイツ状態になられる方もいらっしゃると思いますが、いや、そりゃぁ自由はステキですよ!

 

明日のことを気にすることなく飲みにも行けるし、好きな時に寝て起きれるし、旅行だって行ける。

まさに超ハッピー!

 

何者にも縛られないフリーダムな暮らし。

いつまでも寝ていたいとか、いつでも遊びに行きたいとか、そう思う方たくさんいらっしゃると思います。

 

徐々にやることがなくなる。

でもね、それって結構すぐに限界がくる。

 

自由って自分でやることを見つけないとダメなんで、割とすぐにやることがなくなったりするんですよね。

 

後、自由になっても基本的に消費行動で時間を潰すしかないので、どうしても金銭的な負担が大きくなる。

 

旅行に行ったり、飲みに行ったり、遊びに行ったり、そりゃもちろん楽しいけれど、消費行動なので、心から満足し切ることが難しい。

 

そこまで金銭的に負担がかからない読書や家でテレビを見たり、動画を見たりするのにも、結構すぐに限界がくる。

 

要は超ヒマなんですよね。

 

消費行動では幸せになれない。

そんな消費行動を続けていると、もしかすると働いている方が楽しいんじゃないか、というか、精神的に楽なんじゃないかという気がしてきます。

 

今週末くらいから、また雇用され、働くわけですが、働きたくないというか、あまり気乗りはしないですが、ちょっとした安心感のようなものは少しあります。

 

消費行動が幸せだと感じる人も沢山いると思います。

 

週末の休みはあそこにランチしに行ってとか、観光スポットに遊びに行ってとか、幸せじゃんと思うでしょう。

 

でも、それは休みが有限であるからこそ、消費行動で楽しさを見出しているという風に感じます。

あくまでも僕の個人的な見解ですが。

 

また、平日の5日間をそれなりに苦痛に感じており、羽を伸ばして遊べるから、休日の消費行動が幸せだと感じているのかもしれません。

 

ここまで全て個人的な意見ですが、あくまで僕はこの生活は長くは続かないぞと思いました。

というか、あまりなんのために生きているのかわからなくなりました。

 

人を幸せたらしめるのは何か?

では、消費行動では幸せというか、満足感が得られないのであれば、一体どうすりゃいいんだい!

 

やっぱり生産するしかないのではないかと思います。

しかし、この生産というのがまた難しい。

 

例えば、自分が価値のあると感じるものを生産したとしましょう。

それは絵でも音楽でもイベントでもブログでもなんでもいい。

 

しかし、その価値を自分以外の誰かが感じないと、そこに価値がないのと同じであり、生産のモチベーションの維持が難しくなる。

 

それだったら、金銭を払うことで価値があると約束されたものを消費した方が、はるかに楽で多少の幸福感を得られるでしょう。

 

もちろん、誰かに評価されなくとも、自分が好きでやり続けていることがあるのがもちろん一番幸せでしょう。

 

しかし、人は一度評価されることを覚えたり、そこに可能性を感じてしまうと、どうしてもそれが欲しくなる。

 

メジャーリーガーのイチロー国民栄誉賞を何度か辞退していますが、評価されることがモチベーションの低下に繋がると知っていたのでしょう。

 

そうなると、やっぱり他人の評価を気にすることは、非常に可能性を狭めてしまうということがわかると思います。

 

あくまでも他人の評価は二の次にし、自分の評価を当てにして行きていくことが大切なのかもしれません。

 

話はそれましたが、とにかく自分の価値観を信じ、自らをアウトプットすることが、もしかしたら幸せに近づく第一歩なのかもしれないですね!

 

他人も巻き込みたい

とはいえ、一人で生産できる質や量は限られてきます。

 

イチローの様に自らの心身の限界を伸ばしていく様な、その人の生き様に価値がある場合は別ですが、ほとんどの人がそれをすることは難しい。

 

だから、出来るだけ他人を巻き込んで自由に価値を生み出せる様な、所謂「バンド」を組むことが最善策ではないかと思います。

 

一人、ないし複数人が持ち込んだ曲(価値)を、バンドメンバーで一つの形(生産)にする。

 

このあり方が人生を楽しむカギであり、自由に生きることに繋がるのではないかと思います。

 

これまで自由とは、自分が好きな時に好きなことをすると漠然と理解されてきたと思いますが、その好きなことの中身が、ほとんど消費行動だということに気づいたのではないでしょうか?

 

消費行動は基本的に一人ででき、楽に満足感を得られますが、満足感にも限界があります。

 

しかし、生産行動であれば、工夫次第でどこまでも満足感の幅が広がっていくのではないかと思います。

 

それを、みんなでできたら超ハッピーじゃない?というのが、今回の記事でございます。

 

僕は、以前から他人を巻き込んで、色んなことをしたがっていますが、未だにあまり実現できていません。

 

現在の最終的な目標は「学校を作ること」ですが、割と実現可能な「パーティをする」ということもまだできていません。笑

 

というわけで、5月か6月あたりにパーティがしたいです!

 

パーティと言えど、一体何のパーティだよと思われるかもしれませんが、やはり他人を巻き込んだイベントがしたいので、「共有」に重きを置いたパーティがしたいです。

 

一応、構想としては「一人では解決できないものを解決しよう!〜三人寄れば文殊の知恵。いっぱい寄れば釈迦の知恵〜」的な、パッと今思いついた感じのタイトルですが、そんな感じの人の心の共有に重点を置いたパーティにしたいと思っております。

 

まぁ、こんな感じなので、パーティというかは微妙ですが、是非とも皆で一緒にワイワイ楽しく問題解決したいと思います。

 

というわけで、よろしくお願いします!

 

自由からの逃走

とはいえ、僕も他人を巻き込みたいけれど、なにかをすることに結構ビビります。

 

人は皆自由を求める反面、やはり大衆の安心に身を置きたくなるものです。

 

だってそうでしょう?

僕がこういうイベントを開催すると言っても、前例のないどこの誰だかがやっているのかもわからない本当に楽しいのかもわからないところに足を運ぶのは、それなりに勇気のいることです。

 

それだったら、大衆に支持されている価値の指標のあるところに足を運ぶ方が安定した満足感が得られる。

 

食べログの評価がいい店に行くし、面白いと評判の映画を観に行くし、インスタグラムで話題のスイーツも食べに行く。

そういうもんです。

 

だけれども、それでもなんだか面白そうだと感じたら、その自分の感性を大切にしてほしいと思います。

 

それこそが本当の自由だと思います。

 

フロムは著者『自由からの逃走』にて、人は孤立し、積極的に自由を手に入れるよりは、自由から逃走し、大衆の安定を欲すると説いています。

 

現代に生きる我々を象徴していると感じました。

 

それでも、やっぱり僕は自由に生きたい。

自分が生きる目的を確かめたい。

 

それは抑えがたい欲求であります。

 

ファーストペンギンになるには勇気がいりますが、結局は自分の人生なので、皆さん自由に生きましょう!

 

 

年功序列とノブレス・オブリージュ

突然だが、僕は年功序列があまり好きじゃない。

公務員や教員なんかはそれの極みであり、歯がゆく感じる。

他の企業はわからないが、学校現場における年功序列制度がもたらす悪影響は多いように感じる。

基本的に若手の意見はあまり通らない。

恐らく、経験主義によるものだと推測されるが、どうも論理が通用しないことが多い。

例えば、授業方法などがその最たる例だと思うが、現在、学習指導要領が更新され、その運用が始まろうとしているが、どうも歳を取れば取るほど、それを受け入れようとしない。

自分たちはそうじゃなかったから、新しいやり方には賛成できないということらしい。

というより、そもそも新しい方法論を学ぼうとしていない人もいる。

若手の中でも、新学習指導要領をあまり理解できていない人もいると思うが、新しいことを推し進めようとすると、年配の方はどうも否定的な反応を示す。

そして、新しいことをしようとする若手には厳しく当たる傾向にある。

「まだ、多くを経験していないのに、なにを偉そうなことを言っているのか」

言いたいことはわかる。

しかし、それでは経験をしていなければ、なにも言えなくなってしまうのか?

ただ時期が来るのをひたすら待って、自分が年功序列の上位層に君臨できるまで、耐えなければいけないのか?

それはどうもおかしく感じる。

そもそも、そこまで待っていたら、当時は新しかったものも、その時には時代遅れになっているだろう。

現状、学校現場は年功序列に依るところが多く、かなり時代遅れの教育が採用されている。

文部科学省が最新の方法論を提示したとしても、現場がそれを実行しなかったり、あるいは、形式上実行している風を装ったりしているために、いつまでも一回り遅れた教育が施される。

現在の流行りは、とりあえずペアワークをしたり、とりあえずパワーポイントを使った授業作りをしたりと、その本質を見失い、形だけを真似ているところが多いと感じられる。

中には非常に高度な教育を施しているところもあるのは間違いないが、全体の比率では、そんなところは少ないと思われる。

とまぁ、教育的な問題だけに関わらず、このような現状を生み出してしまっているのは、既得権益から生まれる年功序列に依るものだと僕は思う。

つまり、なにが言いたいのかと言うと、年功序列年功序列として機能する必要条件が揃っていないのではないかと思うのだ。

年功序列的に、役割が増えたり、給料が増えたりすること自体にはあまり異論はないのだが、それによる責任が果たされていないことに憤りを感じる。

ノブレス・オブリージュ

直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」

つまり、年功序列の上位層はその社会的地位を確立していることによる義務を果たさなければならないのではないかということだ。

この義務が果たされていないと感じることが多々ある。

基本的に教育現場では、達成しなければならない目標が曖昧である。

いや、実際は教育基本法に基づく目的と目標を達成しなければならないのだが、それを達成し得る方法論が確立していないことが問題なのである。

その現状に甘んじることで、多くの教員は堕落の道を進んでいる。

いや、若しくはそのことにすら気づいていないのかもしれない。

しかし、我々はその崇高な使命を自覚し、絶えず研究と修養に励まなければならない。

しかし、小学校なら6年、中学高校なら3年で、自動的にどのような結果であれ、仕事は一応終わってしまう。

つまり、頑張ろうが頑張らまいが、育て上げれたか育て上げれまいが、期限が来たら終わってしまうので、特に向上心がなくとも勤まってしまう仕事なのである。

また、基本的には終身雇用の身であるから、年齢を重ねるほど、既得権益にしがみつこうとし、胡座をかいた老人ばかりになってしまう。

これでは組織は育たないし、それが教育なら辞めてしまった方がいいと思う。

この現状を変えるには、胡座をかいてアガリを決め込んだおっさん達に、義務を遂行してもらう他ないのである。

若しくは、終身雇用を失くし、能力次第でのし上がることができるような環境が必要となってくる。

これらのことから、まずは既得権益を守ることをやめ、それぞれが向上心を持てる環境が必要であると思う。

しかし、それと同時に、持たざる者、所謂、年功序列の下位層がどれだけ年功序列の上位層の立場を理解できるかがカギとなってくる。

これらを実現させるには、持たざる者は的外れな文句を言ってはいけない

常に本質を見る眼を養わなければならない。

つまり、個人的な感情で義務を果たそうとしている上位層の足を引っ張ってはならないということだ。

上位層には説明責任があり、下位層はそれを理解しようと努めなければならない。

そうすることによって、上位層も下位層もなくなり、真の平等が生まれるのではないかと考える。

互いに理解し合えるよう議論を続け、アウフヘーベンを繰り返し、ジンテーゼへと皆で導いていく。

そのような世の中になれればいいと私は思う。

さて、正義の議論を始めよう。