杞憂、はたまた核心。

思考の嗜好性を垣間見せ

I thought what I'd do was, I'd pretend I was one of those deaf-mutes or should I ?

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「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ。それも嫌なら…」

 

世の中に漠然とした不満がある人は多いのではないでしょうか。

仕事のストレスや対人関係など、うまくいかないことが出てくるのが世の常ではないでしょうか。

そんな時には愚痴を言ったり、酒を流し込んでひと時の快楽を享受したりなど、それらに対する薬のつけ方は人それぞれだと思います。

 

上記は、「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX」冒頭でのセリフだが、つまりは自分を社会に迎合させ、自分自身を変えてしまうのか、それとも、世間から離れて、何も感じないように生きろという意味合いである。

前者は、芥川龍之介が『侏儒の言葉』にて語った「処世術」に似た意味合いであると思う。

 最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである。

 社会的な因習を軽蔑しながらも、それらと変わらない振る舞いをするということであり、自我を押し殺し、自分を社会に合わせるというやり口だ。

僕は芥川龍之介が好きだけれど、この点に関しては納得できなかった。

当時の社会事情を考えれば、仕方ないのかもしれないが、現代に芥川が生きていたら、また違った考えを持っていたかもしれない。

余談であるが、芥川龍之介侏儒の言葉』は「青空文庫」にて無料で読むことができるので、ぜひとも読んでほしい。

 

後者は、もちろん『ライ麦畑でつかまえて』である。

ドストエフスキーの『地下室の手記』も同じようなニュアンスの作品である。

社会への失望感から、すべてがインチキに見え、社会から自らを隔絶しようといった意味合いだろう。

芥川も晩年はこちらの思想だったのだろう。

自らを殺すことで、社会からの隔絶を成し遂げた。

ライ麦畑』でも、主人公は聾唖者のような振る舞いをしようとしたり、『地下室の手記』では、文字通り地下室に籠ることを決意した男の物語だ。

 

この二つの処世術は、社会になじめない人たちがよくするものなのではないだろうか。

どちらかといえば、前者のように、不満はあるけれども、「とはいってもね」と社会に馴染んだ振る舞いをする人の方が多いと思われる。

それがストレスとなり、愚痴を言いあったり、いない誰かの攻撃などにつながるのだろう。

 

しかし、本当にそれだけしか方法はないのだろうか。

僕は、オルタナティブが存在すると思っている。

それは、「戦う」ことだと思う。

社会に迎合することなく、それでいて黙ることもなく果敢に抗う。

これこそが攻殻機動隊のメインテーマであると思う。

実際、くそほどしょうもない世の中だけれど、何もせずに長いものに巻かれる生活をすることは、ほとんどの場合において、楽であり、平凡に暮らせるだろう。

何も変わらなくてもいいから、このまま平凡に暮らしたい人も多いだろう。

何かを変えるために行動するよりも、多少の不満はあるけれども、割と楽しく生きていけるし、このままで別にいいと思う人が圧倒的に多いだろう。

そんな人たちも、今よりは生きやすい世の中になればいいと思っているはずだ。

僕は、すべての人が今よりも楽に生きていける世の中を作りたい。

 

今の世の中が完成形ではない。

だからこそ、時代を進め、より良くしていきたい。

そのために必要なことは、テクノロジーの発展と教育だと思う。

本当は両立できるほうがもちろんいいのだけれど、今のところ自分にモノを作る能力はないと思う。

だから、既存のテクノロジーを勉強し、それを使いこなし、教育に応用し、より見通しのいい世界を構築したい。

文理の二項対立ではなく、それぞれが調和する必要がある。

いずれは、自分で学習サービスを作ってみたいものだ。

いや、協働で作ることができればもっと良いし、それが僕の目指す世界観だ。

適材適所、フェアに自分の役割をすべての人がふるまうことができる世界。

まずは、小規模からやっていくしかない。

 

一人一人が救世主となれる世界を目指す。

「とは言ってもね」とはもう言わない。

社会生活を営んでいるみなさん。

なんとなく「社会ってのはこういうもんだ」とか、「仕事なんだから仕方ない」だとか思いがちじゃないですか?

そういうのって僕はなんだかムカつくな〜って感じます。

 

「いやいや、そうは言ってもね」と感じる人も多いと思います。

実際、僕の肌感覚では、おかしいことをおかしいと言ったり、指摘したりすると、「わかるけど、そうは言ってもね」という方がすごい多いと感じます。

いやいや、「とは言ってもね」じゃねぇんだよ!!

 

そんな「とは言ってもね」を繰り返して行くとどうなるか、そして、「とは言ってもね」をやめるとどうなるか。

そう言ったことを東京へと向かう新幹線の中で書いていこうと思う。

 

「とは言ってもね」が引き起こす、誰も幸せにならない世界

ほとんどの人が今の社会のままでいいだなんて思ってはいないと思うけれど、それでも文句を言わず、社会を回さないと成り立たないと感じている人は多いと思う。

実際、職場などでもノルマがあったり、誰かが無理して、現行の社会をなんとか回している感は否めない。

その様な実情を目の当たりにすると、僕が言っていることなんて、飛んだ世間知らず野郎だなと思われるかもしれない。

 

しかし、誰かが無理をしなくても回る社会が実現できるのであれば、もちろんその方がいいと思う人は多いはずだ。

現状に不満を抱きながら、それでもなんとかしないとと思っている。

その心持ちは立派だと思う。そんなことは僕にはできないからだ。

というよりは、それをやってしまうことで、生きづらい社会を作る側になってしまうと思うからだ。

 

いきなり辛辣な切り口だが、一度考えてほしい。

例えば、今まで四人でやっていた仕事を、突然一人辞めたことで、三人で回さなければならなくなってしまうとする。

ここで、ほとんどの人はなんとかしないとと思い、三人で頑張ってしまうだろう。

しかし、僕からすれば、それ自体が間違っているのである。

三人で頑張ることに目的を見いだす場合はこの限りでは無いけれど、それも長く続くかはわからない。

さて、もし仮にこのまま三人で多少無理をして仕事回してしまうとどうなるのか。

答えは「人員は補充されない」である。

 

自分が経営者だという視点で考えてほしい。

もし仮に、今まで四人で回していた仕事を三人で回せると感じると、そこに人員を新たに投じるだろうか。

そうはしないはずである。

むしろ、今まで一人分の人件費を多く払ってしまっていたのか、と感じるかもしれない。

「三人は厳しいけど、とは言っても仕方ないか」と仕事を回せてしまうと、その仕事は「三人で回せる仕事」となってしまう。

これは、本人たちだけでなく、その後を継ぐ他の労働者にとっても迷惑この上ない話である。

 

もちろん、中には良い経営者もいて、そこに人員を投入してくれるかもしれないが、それは労働者と経営者の関係が密接であるからこそ成り立つ契約であり、ほとんどの企業はそうではないと思う。

そもそも自分の会社の社長とほとんど会ったことがないという人の方が多いと思う。

その様な組織では、全体に目を向けることは難しいので、中間管理職が多くなる。

そして、普通、労働者の多くはボトムの人員の方が多いので、現場の声を聞きあげるトップの人員が少なく、また、中間管理職の裁量によって組織の意思決定がされる。

 

本来であれば、この中間管理職はそれなりに優秀な人材がやるべきなのだが、どうしてもそういうわけにはいかない。

優秀な人材はもっと上の方にいるし、もし仮にその中間管理職の下に優秀な人材が入ってきても、その管理職が優秀でないと、その人材が優秀かどうか判断できないこともある。

そうなってくると大変で、意思決定は優秀でない中間管理職からのトップダウン方式になってしまい、優秀な人材は飼い殺しにされる。

 

これは年功序列の問題もあるので、即刻、年功序列は辞めるべきだが、優秀でない人の方が自らの経験を過信しがちであり、どうしてもボトムアップ的な経営ができなくなる。

 

「愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。」

 

つまり、自分の経験だけで物事を判断するのはやめて、勉強する必要があるということだ。

これは、誰にでも当てはまる。

そうやって勉強すると、「とは言ってもね」と言うことに何の意味もないことが理解できるはずだ。

 

「君子は和すれども同せず。小人は同ずれども和せず」

 

問題意識を持って行動しようぜ。

 

集中力が切れたのでここで一旦終了。

書いていくうちに本題から逸れがちなのは許してくれ。

書きながら考えるタイプなので、自分の中では文脈はつながっているので、その辺理解していただけると助かります。

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人を好きになった方がいい。

あなたには好きな人、もしくは愛する人がいますか?

そういった人がいるのであれば、それは本当に幸せなことだと思います。

 

これは僕の経験上の話ですが、自分が何をしている時に幸せと思うか、もしくは気持ちが満たされるかということを考えた時に、やっぱり誰かのためを思って何かをしてあげた時がなんだか高揚感を感じます。

 

それが、自分が気になっている人や好きな人、愛する人であれば、なおのことでしょう。

 

人のために何かをするのが気持ちいいというよりは、自分がこの人のために何かしてあげたいと思って、何かをするときに気持ちがよくなるのだと思います。

 

その相手は必ずしも一人じゃなくてもいい。

自分ができる範囲で、誰かのためを思って行動できるのは本当に素晴らしいことだと思うし、また、非常に自分自身嬉しいことだとも思います。

 

だから、まず何より誰かのことを好きになってみる。

これが大事だと思います。

 

好意を寄せられて嫌な気持ちになる人はほとんどいないと思います。

まぁ、その好意の種類や方法によっては嫌な気持ちになるかもしれませんが、それは好意とは似て非なるものだと思いますが…。

 

とにかく、純粋に人を好きになること。

でも、それが案外難しい人もいるでしょう。

 

そういう人はまず、自分を好きになることから始めなければいけないですが、そもそも自分に自信がないから誰かに好意を持ってもらって初めて自分のことを認められて、そうすることで他人を好きになれるという人もいるでしょう。

 

結局、誰かを好きになるということは、幸福感が得られる反面、傷つくこともあるということです。

 

やっぱりどうしても期待してしまいますしね。

でも、そんなあなたにもきっと価値は間違いなくあって、誰かを好きになれるし、誰かから好きになってもらえるはずです。

 

しかし、こう言葉ではわかっていても、心からそれを確かめる術がないというのもわかります。

だからこそ、根拠のない自信が必要なのかとも思います。

 

僕は本当に自信がない人間ですが、それでも誰かが勇気付けられるのであればと思い、こんな文章を綴ってみました。

 

根拠のない自信。ほしいですね!

一度愚直になってみるのもいいかもしれません。

互いに試行錯誤して幸せになりたいものですね。

 

結局、ポジティブとネガティブが共存する記事になってしまいましたが、そのくらいのバランスの方が人間らしくて僕は好きです。

 

僕は弱いし、あなたも弱い。

でも、強くなれる時もある。

好きな人たちのために強くなりたいものです。

 

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人は生まれながらにして平等なのか。

人は生まれながらにして平等ではないだろう。

そう思っている人は結構多いんじゃないでしょうか。

 

そんなものは理想論だと思ったり、経済的に豊かな家庭に生まれれば、その時点で勝ち組だと思われたり。

 

そんな思想の人は結構多いと思います。

 

しかし、一度立ち止まって考え直してみましょう。

そもそも「平等」とはどういうことなのか。

我々は言葉を自由に使用してると思いがちですが、実のところ、言葉の意味を明確に定義付けられる人は少ないのではないかと思います。

 

平等とは簡単に言うと、「皆が一様に等しい」ということです。

しかし、ほとんどの人はやっぱり平等ではないと感じます。

かといって、「人は生まれながらにして平等である」という前提が間違っているというわけでもないのではないでしょうか。

 

僕は、ここに認識の違いがあるのではないかと思います。

 

多くの人が思っている平等というのは、主に経済的な側面が大きいと思います。

 

ごく僅かな資産家が多くの富を蓄えていて、大多数が残り僅かの富を分配しなければならない。

金があるから自由に振る舞える。

そんな風に思っているのではないでしょうか。

 

実際、それなりにお金というものは大切だとは思いますが、それではあまりにも拝金主義的であり、それが故に共産主義的な考え方とも言えます。

 

しかし、本当に経済的な面に対し、平等を謳っているのであれば、ほとんどの国家は共産主義国家になっているはずです。

 

それでも、現状、資本主義国家が多数派ということは、ここで掲げられている「平等」とは、経済的な平等ということではなさそうです。

 

では、一体なにが平等なのか。

 

ここで、世界人権宣言の内容を確認しましょう。

第一条
 すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

 

ここにある程度納得のいく答えが記されています。

 

平等の正体とは、「尊厳と権利」についてです。

「尊厳と権利」については、また機会があれば考えたいと思いますが、とりあえず今回は平等の正体について考えましょう。

 

我々が思っていた平等と本質的な平等が、全く別の意味合いで存在していました。

 

平等とはつまり、有様ではなく、権理通義のことなのであります。

 

これらについては、福沢諭吉著『学問のすすめ』に詳しく書かれているので、是非ともご一読ください。

 

 

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

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ラクして生きるにはどうするべきか。

みなさん、ラクして生きたいですか?

僕はもちろんラクして生きたいです。

 

思えば、今のところ割とラクして生きていると思います。

通勤時間は10分以内。

やりたくない仕事は出来るだけ手を抜く。

やりたいことを大抵の場合優先させる。

などなど、極力、ストレスを感じないように生きています。

 

僕は、ほとんどの人がこのように生きれる世の中が一番健全だと思います。

各々、やりたいことをやって、それが誰かの為になる。

そういう世界がストレスフリーで調和的で魅力的だと思いませんか?

 

では、具体的にこのような生き方をみんながするにはどうすればいいのか。

それには、勉強することが不可欠だと思います。

 

勉強というと、それだけで拒否反応が出る人がいると思いますが、それは「勉強」という言葉の定義付けが間違っているからなのではないかと思います。

 

ここでの勉強とは、学校でやるような勉強とは違います。

自分の人生にとって役に立つ知識や経験を積むことが本当の勉強なのではないかと思います。

 

まず、手っ取り早く勉強するには本を読むことが大切だと思います。

本には様々な偉い人の思想が現れています。

自分一人で悩んでいるより、本を読んで自分とは違う価値観の人の処世術を知ることが大切です。

 

しかし、本を読むことが苦手という人もいるでしょう。

そういう人は大体の場合において、日本語が上手く使えない人だと思います。

読み書きそろばんと言われるように、学習の基礎となるこの三要素は間違いなく必要です。

 

読むことが難しい人は、とにかくまず、読めるように国語を勉強しなければなりません。

しかし、それすらも勉強できない人はもう諦めてください。

そのまま、自分の身に降りかかる出来事をうまく理解できないまま、ストレスが溜まって生きていくしかないでしょう。

 

要するに、ラクをするには勉強することが不可欠だということです。

頑張らない為には頑張らないといけない。

 

しかし、本来勉強は楽しいものだと思います。

何か新しい知識に触れ、新しい世界の解釈ができるということは、非常に楽しいことだと思います。

 

僕は大体の場合において、本を読むか、ニュースを読むかしています。

ケータイではほとんどテキストしか見ません。

動画を見ることもほとんどない上に、ゲームもほとんどしません。

 

僕は、基本的にこの世に存在するものは自分の成長を促すツールだと感じています。

コンテンツそのものが目的となることはほとんどありません。

 

例えば、映画を観たとして、観て面白かったと感じることが目的ではなく、その作品を通して、自分のものの見方が変わることを目的としています。

 

つまり、気付きを重視して生きています。

 

だから、動画を見ることやゲームをする事で気付きが多く得れるのであれば、僕はそれらに時間を費やすと思います。

しかし、現状ではそれよりも多くの気付きを得られるものがあると感じているので、それらにあまり時間を費やしません。

 

こうして書くと、非常に意識が高いように感じられますが、そんなことはなく、気の赴くままに生きています。

 

ただ、せっかくなにかをするのなら、効率よくラクに生きられるようにした方が、人生得すると思います。

 

何か悩みがあれば、同じ悩みを抱えた人がいないか検索し、対処方法を学びます。

自分が抱えている悩みや問題、考えなどは、大体の場合において、自分以外の人も感じているので、調べれば大体のことはわかります。

 

それらを自分一人で抱え込まず、周りに目を向け、解決に結びつける方が圧倒的に効率が良く、ストレスもあまり感じなくて済むと思います。

 

そう考えると、自分が悩んでいることは周りにどんどんと言ってしまった方が、結果的に全員が得をするということがわかると思います。

 

基本的に、この世が生きづらいと感じている人は、なんでも自分一人で解決しようとするからだと思います。

無理なものは無理でいいので、どんどん周りを頼りましょう。

 

そして、そんな自分を正当化しましょう。

 

とは言っても、その行為が社会的な損失とならないようにすることは重要だと思います。

 

しかし、なにが社会的な損失か、もしくはなにが社会的に利益を上げることに繋がるのかわからない人は、やっぱり勉強するしかないと思います。

 

とにかく、手っ取り早いのは本を読むことです。

また、読んでインプットしたものは、すぐにアウトプットするべきだと思います。

やっぱり、ここでも読み書きそろばんは必要となるので、最低限それだけは身につけましょう。

 

読書の仕方がわからないという人は、僕と一緒に読書しましょう。

いつでも声をかけてください。

 

みんなで勉強して、より良いものは何かを考え、皆がラクして生きられるような世の中に、みんなで変えていくことが大切です。

 

みんなで変えるということも、具体的にどういうことなのか。

それも本を読み、勉強すると自ずと理解できると思います。

 

周りが自分になにを与えてくれるのかを考えるのではなく、自分が何か行動をし、自分が自分らしく生きられるように模索し、勉強し、集団に寄与していくことで、皆がラクになると思います。

 

誰かが何かをしてくれるのではなく、自分の人生は自分で責任を持って生きましょう。

 

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僕たちはもっとキレていい。

いつだって人を動かす原動力は、不満であったはずだ。

 

現状に疑問を持ち、それが嘘だと感じた時、俺は憤りを感じる。

そもそも、本当に正しいことが何なのかはわからないが、何が間違っているかはわかるはずだ。

 

例えば、人手が足りないからといって、残業続き、身を粉にして働かなければならない状況が存在しているとする。いや、今この現在、それはどこかで行われているはずだ。

俺はそれは間違っていることだと思う。

俺なら、自分が嫌な思いをしてまで、その仕事をする価値がないと判断できるなら、辞めてしまうと思う。

 

だけれど、そうでもしないと生活できないという人もいるだろう。

好きでやっているわけじゃないけど、生きるためには金がいる。だから、有無を言わずやるしかない。

必要悪だ。

 

そんな必要悪はいくらでも存在する。

酒、タバコ、ドラッグ、セックス、ギャンブル。

それらがないとやっていけない人は多い。

その人たちは、キレまくっている。

どうしようもない現実を。

受け入れがたい現実を。

それらを全てぶっ壊したい。

それでも、それすらもできない。

だから、自分をぶっ壊す。

どうしようもない自分を。

 

クソみたいな社会に憤りを感じているけれど、それをどうしようもできない自分に腹が立つ。

 

自傷行為はそういうもんなんじゃないかと思う。

 

わかった気になっているだけかもしれないけれど、そういう人もいるはずだ。

 

俺は、キレることは健全な証拠であると思う。

ただ、後は方法の問題だ。

ぶっ壊すのなら自分でなくて、クソみたいな社会をぶっ壊せ。

それができないと嘆き、自分を甘やかしていることにはどうにもならない。

 

救世主は現れない。

仮に現れたとしても、そいつを救世主だと思える心の余裕が必要だ。

 

そんな救世主を待っているのなら、誰かにとっての救世主でありたいと思った方がいい。

 

世界に対してキレろ。そして、それにキレてる自分にもキレろ。

世界が発展したのは、現状にキレた人がこれまでに存在してきたからだ。

その人たちが、これまでの常識を全てぶっ壊してきてくれた。

 

俺たちが今常識だと感じているものも、誰かがぶっ壊して、正しくないものになっているかもしれない。

今の常識が、これまでの時代になかったように、正しさはコロコロ変わる。

もし、今の正しさに不満を感じるなら、ぶち壊そう。

救世主は現れないかもしれない。

自分はどう思うのか、それが一番大切だと思う。

 

自分は大切にしたほうがいい。

異常な世の中をぶっ壊せ。

 

常に現状に疑問を抱いたほうがいい。

 

Doubt is the origin of wisdom.

 

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自分に同情するのは下劣な人間のやることだ。

俺はこの言葉に出会ってから、この言葉に込められた思想性を大切にしてきたつもりだ。

村上春樹著 小説『ノルウェイの森』より、登場人物の永沢さんの言葉だ。

 

自分に対する同情ほど、容易いものはない。

そうすることで、少なからず楽になるだろう。

だが、それは問題の根本的な解決になっていないし、あくまで仮初めである。

 

俺はその仮初めを受け入れること自体がどうしても不道徳であり、自分に対して真摯でないと感じる。

 

自分が弱いと思い込んで悲劇のヒロインになることは簡単だ。

しかし、そうしても事態は一向に改善されない。

 

そもそも俺も強い人間ではないが、自分で弱いと認めてしまうとどうにもならないので、自分に同情することは絶対にしたくない。

 

同情や共感、甘えなんて自分で求めるものじゃない。

その感情は他人へのセーフティネットとして機能するべきだ。

そして、一人の人間として、その他人からのセーフティネットに甘んじてはいけない。

 

要は気持ちの問題で、セーフティネットがあるから、大胆に行動できるようになる。

しかし、そのセーフティネットに居心地を感じてしまうのは自分にもその相手にとっても不誠実極まりないことだと思う。

 

「必要なものは理想ではなく行動規範だ。」

 

理想なんてものは仮初めだ。

道徳、つまり、自分にとっての行動規範こそが本質的だと思う。

 

その行動規範がない人間は自分に同情してしまう。

システムを作り、そのシステムを守り切れ。

その先にしか理想はない。

 

理想は誰かに与えてもらうもんじゃない。

自分で求め、自分で守りきらなければならない。

 

これは教訓だ。

 

誰かはわからない相手に向かって、それと同時に、自分にも言い聞かせなければならない。

 

日々起こる出来事は、何かしらの見識を与えてくれる。

それをどのように捉え、どのように役立たせるかは自分次第だ。

 

誰かにとってのメッセージになることを祈って。

 

 

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

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ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

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