国民総情報弱者時代。
なかなか攻め込んだタイトルだが、僕は喫緊の課題であると思っている。
そもそも、情報弱者とはどのような人のことを言うのか。
情弱(じょうじゃく)はもともと「情報弱者(じょうほうじゃくしゃ)」の略称だが、この意味で使われることは少なく、インターネット上などでは別の意味で用いられることが多い。
1.情報弱者。情報環境が良くない場所に住んでいたり、情報リテラシーやメディアリテラシーに関する知識や能力が十分でないために、放送やインターネット等から必要な情報を享受できていない人。 → 情報格差を参照。
2.転じて、各種の情報に疎くて上手に立ち回れない人を揶揄して言う言葉。 → インターネットスラング#蔑称などを参照。
この日本に住んでいて、1の意味のような情報弱者の方は申し訳ないが論外である。
論外とはなかなか辛辣な言葉ではあるが、そもそもこの意味での情報弱者の方々は、このブログ記事にすらたどり着けないので問題ない。
とにかく、このブログを見ることができているあなたは少なくとも1の意味の情報弱者ではない。安心してくれたまえ。
しかし、問題はこの2の意味での情報弱者である。
僕は揶揄するつもりでこの言葉を使うことはないが、実際にこの意味での情報弱者は多いと感じる。
情報は携帯、スマートフォン、パソコン、何かしらの電子端末機器を持っていれば、容易に手に入れることができる。
それらがなくてもテレビなどで情報を手に入れることはできる。
新聞だって本だってなんだっていい。
我々は常に多くの情報を手に入れる機会がある。
しかし、その情報をうまく活用できているか、と聞かれれば、容易に頷くことはできないだろう。
つまり、僕が思う「情報弱者」とは、メディアリテラシーが欠如している人のことであり、その人の数はかなり多いのではないかと思う。
メディアリテラシーの欠如の要因
メディアリテラシーの話に入る前に、メディアリテラシーとは何かを定義する必要がある。
メディア・リテラシー(英: media literacy)とは、世の中にある数え切れないほどの沢山の情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。
要は情報を正しく読み取る力のことである。
さて、では何故このメディアリテラシーが身についていない人々が多いと感じるのか。
それにはいくつかの要因があるはずである。
その要因を一つずつ考えていきたい。
こんなことを言ってはなんだが、そもそもこの考えるということがメディアリテラシーを培うために非常に大切なことだということを言及しておく。
まず、僕が考える第一の要因は「時代の変化」である。
時代の変化と言ってしまうとかなり抽象的であり、元も子もないじゃないかと思う人がいるかもしれない。
しかし、時代の変化と言われても、具体的にどのように変化し、過去の我々と現代の我々では何が違うのかを明確に理解している人はほんの少数ではないか。
僕たちは時代が変わっているということはなんとなく理解しているが、そこに正面から向かって何が変わったのかを考えたことがある人は少ないのではないか。
僕が伝えたいことはまさにそのことである。
人は漠然とした概念をなんとなくわかった気になる傾向がある。
国語の文法なんかが最たる例であり、普段何気なく使っている日本語を文法的に解釈しようとすると全然分からなくなるような感じである。
なんとなく理解して日本語を使っているが、それを一つ一つ意味づけをしようとした途端、訳が分からなくなってしまう。
それほど、我々は普段からわかった気になっているものに囲まれて生活しているということだ。
時代が変わったと言われるとなんとなくは理解できるが、どのように変わったのかと問われるとうまく答えられない人がほとんどであるのも無理はない。
では、実際に時代はどのように変わったのか。
一番大きく変わったことは、やはりインターネットの登場であろう。
ほとんどその一点に収束すると言っても過言ではない。
これまでの時代では、人々が情報を得る手段は人から教えてもらうことか、本などの媒体を介してのみであった。
その結果、学校ができ、地域のコミュニティもでき、国家的な教育が行われていた。
人々は情報を得るために国家や地域、家庭などのコミュニティに留まるほかなく、そこには縦の関係があった。
教えを請わなければ学ぶことができない。
人々はその個人が持つ能力により、その人価値を決定していた。
教師と生徒という縦の関係。
職人と弟子という縦の関係。
上司と部下という縦の関係。
その場で生きていくには能力のあるものに従わなければいけなかった。
その場を共有する人達でしか、その人達の価値を見出すことができなかった。
かなり閉鎖的な時代であった。
しかし、現代では誰もが自由に思想を発信でき、それを共有できるようになった。
能力だけ高い人間に対して、団体で交渉できるようになった。
それだけでなく、全ての人が全ての人の価値を実感することができ、また、学習も電子端末一つでできるようになった。
もう理不尽な権力に従わなくてもいいのである。
インターネットを介して情報を手に入れることができるようになり、誰でも知識を習得することができるようになった。
これは人々の可能性を大きく肥大させることになった。
しかし、ここで一つ問題が生じる。
時代は変わり、情報革命が起こったが、人々の意識はまだ革命が起こっていないのである。
つまり、未だに人々の思想は前時代的だということである。
とはいっても、近年、ものすごいスピードで時代が変化したことは否めない。
人々の思想がそれに追いつかないことも無理はない。
しかし、だからといって進むことをやめる理由にはならない。
人々は進まなければならない。
これまでは知識の伝達にコストがかかっていたが、現代ではほぼノーコストで知識を得ることができる。
つまり、これまで知識を得るために使っていたコストを、他のものに使用することができる。
一体、その他のものとはなんなのか。
無論、「教養」である。
「教養」とは、知識を活用する力である。
活用とは、主に実生活に役立てるという意味で使われることが多い。
しかし、これまで知識を得ることに重きを置いていた人々は、「教養」の大切さに気付いていない。
実際、子どもの学習指導をしている時によく感じるのは、
彼らはとにかく答えを知りたがるということだ。
解き方なんてものは興味がなく、ただただ模範解答を求める。
これは現代的な知識の習得方法と、前時代的な教育が招いた最悪の結果である。
未だに学校では答えを求め、子ども達に模範的な行動をとらせたがる。
そもそも模範的とはなんなのか。
そこに疑問を持つ子どもは多いと思うが、それを解決する方法を知らないのである。
つまり、答えの求め方は知っているが、解き方は知らず、また、それの活用もできないという最悪の状態が現代の教育である。
これを解消するには、まず大人が自身の教養のなさに気づき、メディアリテラシーを高めなければならない。
このままでは非常に日本が危ない。
教養を高めるために
ではどうすれば教養を高めることができるのか。
それは質の高い対話である。
個人でも深く掘り下げることができる人間は一定数いるが、多くはないだろう。
そもそも、ほとんどの人は自分が何も知らないということを知ってすらいない。
知的好奇心の赴くまま、物事を掘り下げていければ、「教養」は自ずと付いてくるだろう。
しかし、これまでそれができなかった人たちは、おそらくこれからも難しい。
とにかく、この時代に置いて必要な能力は「教養」である。
だから、とにかくひたすら誰とでも対話し、疑問を掘り下げよう。
近々、個人的に対話イベントを開催したいと思っているので、興味がある方は是非とも来ていただきたい。
共に深い学びを、気づきを共有しましょう。
ではでは本日はこの辺で。
P.S. 要因を一つ一つと言ったが、結局言いたいことは「時代の変化に順応すること」でした。
要因も「時代が変わった」これにつきます。
AITOWA
前回は「恋愛」について書かせてもらったが、皆さんの期待に応えることはできただろうか。
個人的には、当初書こうとしていた「恋愛」の価値・テクニック(?)のようなものに全く触れられなかったので、少々不完全燃焼気味ではあるが、それ以上になかなか面白い考察ができたので満足である。(自画自賛)
そんな前回の記事をまだ見ていない方、一度目を通して頂ければ幸いです。
さて、今回は前回書けなかった「恋愛」について書かせていただこう。
前回あんな仮説を立てたけれども、結局どんな人でも入り口は「恋愛」であり、「愛」であるのではないか。
そんな「愛」について、考えを深めましょう。
愛とは。
さてさて、「愛」について語らせていただきますが、そもそも「愛」とは何なのか。
普段何気なく「愛」という言葉の意味を理解しているつもりではあるが、実際に「愛」とは何なのかと質問されて具体的に答えることができる人はほとんどいないんじゃないでしょうか。
というわけで、今回もWikipedia先生にお世話になりましょう。
Wikipediaを見てみると、やはり曖昧な説明が羅列されているが、その中で興味深く、僕が「愛」に対して抱いている価値観に限りなく近い記述があったので、それを紹介しておこう。
相手が幸せでいてくれればいいという気持ち。
これである。この一文にすべてが集約されているといっても過言ではない。
この「相手が幸せでいてくれればいいという気持ち」について、これから論じていきたいと思う。
相手の幸せは自分の幸せ。
さて、早速宗教臭えと思った方が少なからずいらっしゃると思う。
しかし、そう思っている方はもしかすると「宗教」や「愛」について、少なからず偏見があるのではないかと思う。
もしかすると、そういった偏見自体がある種「偏見教(もしくは懐疑教)」のような「宗教」なのかもしれません。
まあ、そんなことはひとまず置いといて、とりあえずフラットな視点で見ていただければ幸いです。
見出しにパワーワードと言わざるを得ない文言を記したが、そもそも人間はどんな時に「幸せ」と感じるのか。
「幸せ」の定義は人それぞれであり、一概には言えないものではあるが、その「幸せ」は一時的なものではなく、継続して常に感じられることが望ましいと思う。
しかし、人はある程度幸せを享受することを限定し、その一時的な快楽の為に日常を犠牲にすることを厭わない傾向がある。
代表的なもので言えば旅行に行くことや、美味しいものを食べる、欲しいものを買うなどである。
だが、やはりそれは一時的なものであり、継続するのは難しい。旅行など、ほとんどの人は月に一度も行けないだろう。
また、食事や物品の購入などは、比較的容易に行えるが、得られる幸福度(?)が少なく、暴飲暴食を繰り返したり、少しだけ欲しいと感じたものを何度も購入してしまったりする傾向があり、その度自己嫌悪に陥る人が多いのではないか。
僕自身もそんな経験はあり、酒を飲みすぎて次の日嫌になったり、買ったはいいものの全然使わなくて勿体無いなぁと感じることなどこれまでたくさんあった。
それでも人が何度も繰り返すのは、その「幸福」の享受が容易であることがまず第一の要因であるだろう。
しかし、もちろんそれだけではない。
厳しい言葉で言えば、「幸福」だと感じる事象・行為があまりにも身近にないという場合である。
端的に言えば、私生活が充実しておらず、手の届く範囲の充実を求めた結果なのではないか。
あくまでも推論の範囲だが、なんとなくそんな経験を皆してきたと思う。
さて、もしそうだったとしたら「幸福」は消費され続けなければならない。
幸福はインスタントなものでもなければ、モーメンタリティなものでもない。
我々が幸せを享受し続けるにはどうすればいいのか。
そう、「愛」こそが幸福なのである。
愛、永遠。
愛とは。改め、「愛、永遠。」
何故「愛」こそが幸福なのか。
決してこれから話すことは宗教でもなければ、理想論でもない。実現可能なリアリズム的発想である。
そもそも「愛」とは、冒頭でも説明した通り「相手が幸せでいてくれればいいという気持ち」であり、相手が幸せであるということは自分も幸せでいれるということである。
文字にすると凄く簡単なことなのだけれど、いざ実行となると非常に難しい。
何故なら人は常に無意識のうちに競争状態にあるからである。
しかし、無意識下なのでそれは意識すれば変えることができる。
「競争状態」とはどういう意味だろうか。
例えば「嫉妬」なんかは最たる例である。
「嫉妬」の感情は無くならないんじゃないかと思われるほど、人々は嫉妬する生き物である。
では、何故嫉妬をするのか?
そこには自分と比べ、他人の方が優れているところがあるからである。
否、優れていると思い込んでいるからである。
そもそも、優れているとはどういうことなのか。
嫉妬の最たる例である「恋愛」で言えば、自分が好きな人が、自分以外と楽しそうにしていたりすると嫌な気持ちになったりすることがあるだろう。
その時、何故嫉妬するのか?
それは、自分ができないことを他人にはできているからである。
その時点で競争相手は他人ということになる。
もう少しわかりやすく言えば、他人に対して劣等感を感じている。
しかし、この劣等感は非常に危険で、その他人を敵とみなしてしまう。
本当は自分の不甲斐なさに苛立っているのに、わかりやすく他人にその苛立ちをぶつけてしまう。
恋人との関係もそうであり、自分の恋人という認識から自分は他人と違う特別な人間だと思い込み、その特別な地位が脅かされると、他人や恋人自身を責めてしまう。
つまり、自分と他人を比べ、その中で上下を作ることが嫉妬に繋がり、その価値観を持ち続ける以上、他人は常に自分の敵となり得るのである。
そのような人には他人を愛することは難しいだろう。
それでも愛しているという人は、本当の意味での「愛」を理解できていないのかもしれない。
何故なら「愛」は自分の存在はなく、そこにあるのは「私達」だけなのである。
「I」ではなく「We」であり、「You」なのである。
さて、ナンノコッチャワカランと思う。
あまりにも話が飛びすぎているからだ。
しかし、ここに全てを書ききることはできない。
また、これは対話の中で理解していくものだと感じている。
しかし、既存の価値観を一度ひっくり返し、新たな視点でものを考えることが求められている。
これも例外ではなく、理解ができないものには一度これまでの考え方を変えることで見えてくることもあると思う。
とにかく僕が言えることは、「愛」こそが全てであり、それは「永遠」であることだ。
とはいう僕もまだその境地を心から理解はできていない。
それにはまだまだ経験や実感が足りていない。
だから、その経験や実感を得るために何かをやらなければならない。
そこで、一度皆で話ができるようなイベントを開催するつもりだ。
詳細は後日発表するので、良ければまた見ていただきたい。
とにかくそれまで一人一人「愛」について考えていただきたい。
みんなで世界を変えよう。
「愛」に溢れた世界にしよう。
掲げろピースサイン✌️
結局「恋愛」なんじゃね?
さて、今回はBooks reviewとは別の記事を…。
実際、このままひたすら本の紹介だったら見る気も失せるでしょうしね。
というわけで、この世に生を受けたからには、皆さんの関心ごとのひとつである「恋愛」について一筆取らせていただく次第でござる。
いつもの堅苦しい(?)記事とはおさらばじゃ!
恋愛とは?
「恋愛」つまり、英語では「Love」、フランスでは「Amour」のあれである。
時には人に生きる活力を与え、はたまた、恋煩いのような恋の病と呼ばれる症状が出たり何かと人を翻弄してくるあれである。
あと、なんとなく見出しをピンクにしたんだけど、「恋愛」といえばピンクだよね!青とかのイメージだともはや冷戦状態だよね!(何を言っているかわからない)
とまあ、こんな具合で我々の日常に欠かすことのできないこの「恋愛」だが、20代前後の人々にとっては喫緊の課題である。
というのも、我々には母と父がいて、その二人から生み出されている。そうやって生み出された人々がこの世に大体70憶人もいるわけである。
一人の例外もなく、この世に生を受けているものは全てこの方法によって生まれてきた。
となると、意識はしていなくとも生物的に恋愛をし、子孫を残すことは至極まっとうなこととして受け入れられ、幼き頃から自分自身もいずれ恋愛をし、結婚をするのだと、遺伝子レベルで刷り込まれていてもおかしくはない。だから、人は恋と向き合い、恋に悩むのではないかと考えられる。
となると、目的はあくまでも「子孫繁栄」であり、「恋愛」は手段に過ぎないのかもしれない。
しかし、我々は「恋愛」に重きを置き、目的であるはずの「子孫繁栄」をタブー視しがちである。それは一体何故なのか…。
…くそう、当初書こうと思っていた方向性と全く違う疑問が生まれてしまったぜ…。
ちなみにいつものブログも書いているうちに問題意識が変わり、着地点の見えない内容になってしまっている…。思考のつながりはやはり無限大ですね。
何故「恋愛」に重きを置くのか。
しかし、せっかく出た疑問なので、掘り下げて考えてみよう。
ついでに、今度は見出しを水色にしてみたが、これはこれで「爽やかな恋愛」感が出ていいね。言うなれば高校生の恋愛って感じ?まあ、あんまよくわからんが、とりあえずパステルカラーだとなんだか大丈夫そうです。
さて、何故「恋愛」が重要視されているのかでしたね。目的が「子孫繁栄」であるのなら、特に恋愛をせずとも一気に目的に向かえばいいのに。
実際、人間以外の動物は「恋愛」を必要としておらず、一夫多妻のような形や、繁殖を終えると食べられてしまう動物もいたり、生物としての目的を全力で果たそうとします。
しかし、人間だけが「恋愛」をし、また、それに重きを置いている。
人間が他の動物と決定的に違うのは、高度な知能の有無です。
人間は高度な知能を持ち、自らの生活をより豊かにするべく考え、創造し、非常に便利で効率のいい社会を形成してきました。
それなのに、この「恋愛」については、未だに非効率的であり、複雑であります。
なんなら、遥か古の時代の方が、この「恋愛」や「子孫繁栄」については効率的だったとも思われます。
実際に、一夫多妻制や夜這いも日常茶飯事だったと言われています。
これはなかなか興味深いですね。
ここで一つ仮説を立てるとすれば、知能が低いと「恋愛」を重視しない傾向がある。
ということです。
これはあくまでも仮説ですが、よくよく考えてみれば日常でもそのようなことを感じる人もいるのではないでしょうか。
また、現代に比べ、古代の方がIQが低かったのでは…と思いましたが、調べたところ、どうやら現代人のほうが古代人に比べIQが低いことがわかったようなので、この点については疑問が残ります。
環境や知識の差が大きいのでしょうか?
しかし、すべての人が知能指数が高かったとは考えにくそうです。
現代では、誰もが教育を受ける権利を有しており、ある程度の教養はほとんどの人が身に付けられます。
しかし、昔は教育を受けることができるのはほんのわずかな人であり、ほとんどの人々は教養がなかったと考えられます。
また、和歌には比較的「恋愛」について歌ったものが多いですが、それらはやはり文字を読み書きできた教養のある人のものであり、このことからも「恋愛」には多少の教養が必要だという仮説を立てることができます。
そう考えると、年々複雑化していくように感じられる男女の関係もなんとなく納得できるような気がします。
何故手段が目的化したのか。
せっかくなので色の三原色である黄色も使いました。特に意味はありません。
さて、ここまでくると、なんとなく「恋愛」が重視され、「子孫繁栄」が軽視されているのかが見えてきました。
まず、「恋愛」が重視されている点ですが、「子孫繁栄」のきっかけ作りとして「恋愛」という感情が生まれるように遺伝子に組み込まれていたものが、どうやらそれ以上の価値を見出した者が現れ、深く掘り下げてみると、また、感情を揺さぶられるような体験を発見し、その繰り返しがまた遺伝子に組み込まれ(もしくはミームとして人々に伝わり)、現在のようなスタイルになったのではないか。
全く何を言っているかわからないが、俺もわからない。ただなんとなくニュアンスをくみ取ってくれ…。
とにかく、手段として用意された「恋愛」だが、その目的である「子孫繁栄」を達成する為に、とにかくステータスを大幅に振り分けたと考えてくれればいいのかもしれない。
つまり、目的である「子孫繁栄」は、必ずしも達成しなければならない目的なので、その入り口である「恋愛」に食いついてもらうために、かなりの餌をばらまいたといえばわかりやすいかもしれない。
入り口を非常に多く設定し、誰もがそこに達することができるような仕組みを「恋愛」に組み込んだのだ。
それゆえ、楽しみの幅が非常に多く、知識・教養のあるものは、その魅力に気づき、いつしかその魅力が重要視されるようになったのではないか。
我ながらなかなかの考察だと自画自賛している。
そんな中で知能の低いものが、目的である「子孫繁栄」を達成している様を見ると、なんだか軽蔑したくなる気持ちになるのも不思議ではない。「恋愛」の楽しみを知らずに目的だけにしか目がないのは愚かだと思うのも無理はないかもしれない。
また、生物の目的である「子孫繁栄」は、その重要性から鑑みて、とてつもない快感を得ることができるのは理にかなっていると言える。
もしもこれが苦痛であれば、人類はとっくに滅亡しているだろう。
なので、快楽に溺れる人々を見た知識人が軽蔑をするのも、無理はないと考えられる。
その考えがミームとなり、現代に伝わっているのではないか。
真相はわからないがそういう可能性もある。
すっかり着地点を見失う。
さて、とりあえず一旦ここで考察を終えたいが、ふと、もう一つ仮説を思いついたので、もう少しだけお付き合い願おう。拒否は受け付けん!!
もう一つの仮説とは、現代が科学で解明されていることが多いという部分にある。
我々が生きている現代は、ほとんどの現象が科学によって解明されている。
しかし、人の心というのはいつの時代もわからないものだ。(心理学は発達しているが、完全ではない)
そんな何事もわかる現代において、身近なわからない「恋愛」は魅力的に写るのではないか。
もともと人は知的好奇心を有しているが、現代のような「わかる」時代では、積極的に物事を考えることが少なくなっている。
教育界でも非常に問題視されているが、知的好奇心が完全になくなったわけではないということは、「恋愛」の存在が証明してくれているのではないかと思う。
人は「恋愛」をし、それに悩まされる生き物であり、そこで学びを得る。
なるほど、「恋愛」をしている人の方がなんとなく深い人間のように感じるのもこれが所以なのかもしれない(しかし、幸せな恋愛に限る)。
そうとなると、人々がまずしなければならないのは「恋愛」なのではないか?
義務教育に「恋愛」を組み込むべきである!
実際に学生時代に「恋愛」ができなかった友人はなんとなく苦しんでいるように感じるぞ!
今後、そのような人をなくすためにもみなさん、積極的に「恋愛」をしましょう。
なんとなくタイトルにあった終わり方ができたので良しとしよう。
ではまた。
次は「恋愛」の攻略方でも書こうかな。(需要なし?)
いや、そもそも攻略できるほどの実力はないか…。
「恋愛」(入門編)にしよう。そうしよう。
ではこうご期待!!
書は捨てず、街に出る。
最近読んだ本紹介Part2!
Part1はこちら!
前回は「嫌われる勇気」を紹介させてもらった。今回紹介するものもほんとは前回にまとめようかと思っていたのだが、量が膨大になる上、まずは「嫌われる勇気」という本に向き合ってから、今回紹介する本を読んでほしかったからである。
というのも、今回紹介するのは「嫌われる勇気」の続編である「幸せになる勇気」であるからだ。
「幸せになる勇気」
これは「嫌われる勇気」を読んでから、読むか読まないかは選んでほしい。
もっと知りたくて読む人、「嫌われる勇気」が伝えたい意味が分からなくて読む人、はたまた「嫌われる勇気」が机上の空論だと感じて読まない人、自分には必要ないと思って読まない人、理由はなんでもよいし、読んでも読まなくてもいい。
読んだ人にしかわからないこと、読まなかった人にしかわからなかったこと。世界で起こっている出来事もまた同じで、すべてのものは表裏一体である。
この本では主に教育について書かれている。教員の方や教員志望の方は読んでおいて損はないはずだ。
というのも、ここで述べられていることは、次期学習指導要領の要となる「主体的・対話的で深い学び」に関連する重要なことが書かれているからである。
学校教育は全く時代のニーズに応えることができていないと感じていたが、ようやく次期学習指導要領で時代に追い付く希望ができたと考えている。
しかし、この考え方は既存の学校教育のあり方を根底からひっくり返すものであり、これまでのやり方、考え方では運用することが非常に難しい。
アドラーの思想は100年先の思想だと言われているが、まさにその通りで、まだ人類全体がこの思想に追い付くことができていない。
だからこそ教育が重要であり、その教育に革命を起こし、思想革命を行うことが重要である。それには運用する教師がまず初めに変わらなければならない。
教師が主体的・対話的で深く学び続けることが不可欠である。
だから、僕がこのようにブログを書き、人々に学びのきっかけを提供していることは教育であると感じているし、経験や本を読むことから主体的に学ぼうと心掛けている。
どんな人とも対話をし、そこからまた問題を見つけ、掘り下げる。これは実践しないとわからない。
そんなことを無責任に子供に提供することは極めて危険である。今後の未来を創ることに教師や学校は大きな関わりを持つだろう。そのことを念頭に置いて、教育者の方は選択してほしい。
話がずれてしまったが、この本が伝えたいことは教師にだけではないということを知っていてもらいたい。
もとより人間はすべての現象をカテゴライズして理解しようとする傾向がある。それは、人の役割についても例外ではなく、その人を人として見るのではなく、肩書で人を判断しがちである。
これは、カテゴライズすることで理解を簡単にするという側面があるが、それが当たり前となっている現代では、人に限らず表面上だけで判断してしまう傾向がある。
教育は教師がするものだとどこか無意識に感じている。これは時代の流れでもあるが、それを望んだのは紛れもなく我々人類である。
地域社会からの教育を拒み、権利を主張する輩に擦り寄ってしまった報いである。
現在、ノイジーマイノリティが問題視されている背景にはそのような歴史があることを知っているかどうかでも見え方が変わるはずだ。
本来、人間の営みには役割はあったとしてもカテゴライズはあってはならず、すべての人がすべての人のために自身の役割を全うしなければならない。「情けは人の為ならず」という言葉の意味はこういうことだと思っている。
周りまわって実際に生きづらい世の中にしてしまっている。我々が行動しなかったが為に。ノイジーマイノリティーを放置し続けた為に。
今こそ革命のときだと思うよ。
とにかく、この本には我々が自他を理解する手立てが非常に論理的に書かれており、自分の行いが他人や世界、また、自分にとってどのような影響をもたらすのかが詳しく書かれている。
読むか読まないかはあなた次第だが、これはなにかのきっかけであるということは意識したほうがいいかもしれない。
では、次回も乞うご期待!
書から学ぶ、現実。
最近、知人にオススメの本を聞かれた。僕もそこまで本をたくさん読んでいるわけではなく、また、どのような本を求めているのかわからなかったので、あまり詳しく答えることができなかったが、せっかくなのでこの機会に僕が少なからず影響(?)を受けた本を紹介したいと思う。
僕は、それらの本を読んだ順番にも今では意味があると感じていて、それ自体もなにか気づきの重要なファクターだと信じている。
そのことも少し触れられればいいと思っている。
では、まず僕が潜在意識下で感じていたことを言語化していた本を紹介しよう。
「嫌われる勇気」
この本との出会いは、たまたま立ち寄ったTSUTAYAで、大々的に展開されていて、試し読みすることができたので、少し読んでみたことである。
その時は最初の数ページしか読むことができなかったがどうやら面白そうだと感じ、数日後にブックオフにて購入した。
当時、この本を題材としたドラマも放送されていたので、少し興味を持つきっかけにもなった。
因みにドラマは観ていない。
この本は、世界は非常にシンプルであり、また誰もが幸せになることができるものの見方を教えてくれます。
こんなことを言うと非常に胡散臭さが増し、「宗教か?」という声も上がりそうですが、本書ではそれを明確に否定していますし、僕自身もこのブログにて人が宗教に対して持っているイメージがどんなものかを書かせていただいているので、そちらもまた参考にしていただければよろしいかと思います。
この「嫌われる勇気」はアドラー心理学を元に書かれた本ですが、アドラー心理学は個人心理学と呼ばれ、一人一人が本質的に持ち合わせているはずの人間の真理を追求したものであり、我々はまだその思想に追いついていません。
これまでの常識を一変する哲学であると言えます。
なので、これまでの価値観や思想にしがみついてしまう人には受け入れがたいことが書いてあるかもしれませんが、その心理状態に対しても本書では詳しく説明されているので、読み進めていくにつれ生じる疑問はほとんど解決されるかと思います。
また、この思想は僕がこの後に読んだ本にも非常に共通するところがあり、それに気付くことができるための色眼鏡の役割を果たしています。
何事にもまずは常識を疑い、自らに問い続け、思考を深めていくことが大切ですが、本書ではその思考の過程を丁寧に導いてくれるので、まだ読んでおらず、漠然と過ぎる日々にやり切れなさを感じている人は一度読んでみる価値はあるのではないかと思います。
僕自身もこれを読み、今まで考え感じていたことが繋がり、非常にシンプルで色鮮やかな世界になりました。
いつだって世界を変えるのは自分自身です。
それが真理であり、それから読んだ本にも全て同じことを違う言葉、表現で書かれています。
この記事に全てを書くと非常に膨大な量になってしまうので、何度かに分けて書きますが、まずはこの一冊を読んでみてはどうでしょうか。
この本を読むも読まぬもあなた次第。読んだ方にしかわからないこともあれば、読まなかった方にしかわからないこともある。
全ては選択の連続であり、この記事をたまたま目にしたあなたもそれを選択した。
世界は自分が見たいものを見せてくれる。
そのことを意識するだけでも少しでも見え方は変わるんじゃないでしょうか。
少なくとも私は、見たことによって世界が変わるきっかけになりましたが、実はそれまでに伏線は張られており、たまたま大きな回収ポイントがこの本に出会ったところだったのだと思います。
なので、この本を読まなくても、人生の伏線を回収する機会はあると思います。
読むことが伏線になり、読まないことが伏線になります。
どこで回収するかは自分次第。
回収ポイントに気付くことが大切です。
そういった面ではこの本は非常に有用なのではないでしょうか。
この本紹介、意外と長くなりそうですが、興味ある方は是非ともまた読んでください。
ではまた。
東京。
いつも、よくわからない話をされて、このブログを見ることへの意欲が削がれている方々、多数いらっしゃるでしょう。申しわけない…。
今回は方法論ではなく、ただただ行ってきたよ、そして、何を思ったかを書くので、割と普通のテンションで読んでいただけると思います。
さて、今回東京に行った理由は他でもなく、現在Twitter上で、かなり話題の「ブラックボックス展」にどうしても行きたいと思ったからである。
内容は一切知らされず、展示のネタバレなどもなく、ただただハッシュタグ「#ブラックボックス展」とともに投稿されたおぞましいポエムのような内容がある限り。
ブラックボックス展とやらがすごく気になる。入場者の選別があるらしく数時間並んで入口まで辿り着いても入れないことがあるらしい。行ってみたいけど精神崩壊する気しかしない。 pic.twitter.com/9xhyiBHst2
— AKOHaL (@akohalxox) 2017年6月15日
#ブラックボックス展 に行ってきた。“知ってしまうこと”がこんなにも恐ろしい事だと知らなかった。
— ❍COM病愚 (@21stC_schizoid) 2017年6月16日
..深淵から覗いているのは自分だ。恐怖と孤独で包まれた。それなのに心が高鳴る自分もいた。
入った瞬間に絶望を感じて、それでも進んだ先にふと全てを理解できた瞬間があった。
.
入った瞬間は不安で仕方ない
— hinaco (@___justdoit_) 2017年6月16日
出てきた時は本気で笑ったけどそれと同時に少しイライラもした
なかのひとよ、最初からあなたの立場にいたらとても世界が滑稽に見えて面白かったでしょう、私ももう加害者ごめんなさい#ブラックボックス展
謎だらけであるが、どうやらとんでもないことがこの場で起こっていて、価値観を揺さぶる「なにか」がそこにあるのだと感じさせる内容である。
また、この口コミがさらに人を呼び、展示は連日大盛況で、日に日に入場者は多くなり、ついには入場待ちの列が、周辺住民への迷惑だということで、警察の指導が入る始末。
謎が多いが、どうやら本当に凄いのでは?と感じさせる。
というわけで居ても立ってもいられなくなり、有休を火曜日に一日取得し、月曜日の夜行バスで東京に向かった。
もちろん月曜日も水曜日も仕事はあったが、そんなものは関係ねえ。
というわけで、あわただしく準備をし、月曜日の23:30に梅田から出発し、翌朝6:45に池袋に到着。
夜行バスで隣の席の人が明らかに1.25席分ほど占領し、僕は0.75席分ほどしか陣地がなかったが、その割には結構寝れたので、まあ結果オーライ。
しかし、東京は生憎の雨。これを見越して傘を持ってきていた自分を褒めてやる。
東京の朝は不気味だった。ただ暗いことで不気味だったというよりは、人がいないことに違和感があった。
これは都会だからこその感覚だったと思う。
不気味な空間から抜け、少し駅に近づくと人が少し増えてきた。
僕はとりあえずシャワーを浴びたかったので、池袋にあるネカフェでシャワーを浴びることにした。
どうやら初回利用は一時間100円で、シャワーも借りれるらしかったのでおススメである。
この時点で時刻は8時過ぎ。本当にノープランで来たので、特にやることもない。
なので、とりあえず国会に行くことにした。国会を一度見てみたかったから。
ということで、池袋駅で「東京メトロ24時間乗車券」を購入し、「国会議事堂前」駅を目指した。
早速電車に乗り込もうとしたが、殺人的な通勤ラッシュがそこにはあった。
電車の込み具合もすさまじく、カバンは前で持つのがデフォルトのようで、もはや家を出た時からリュックを前で持ってるんじゃね?と思うほどであった。
しかし、それ以上に驚いたことは、下車駅から乗り換えるときに、皆走っているのだ。
もちろん、僕自身もそんな経験は大いにある。大学時代なんてよく駅から駅を走ったものだ。(慣れると走ることをやめ、意識は遅刻する方向へシフトする。)
その光景を見たとき、人は誰の意思でもない、時間に支配されているのだと感じた。無論、そのことに気づくきっかけは、これまでに何度もあっただろう。
しかし、そのことをどこか当たり前に感じ、そういうものだと思っていたのかもしれない。同じような光景は、もちろん大阪にもある。
だが、その同じものを、今回は違う場所で感じ、異なった視点から見たことにより、「気づき」があった。
駅構内で走って乗り換えをしているサラリーマンも、朝帰りのギャルも、遅刻しがちな大学生も、特に急ぐ予定のないフリーターも、きっとそのことに気が付いていない。
当たり前のように流れる日常に、「気づき」を感じるときは、必ず視点を変えなければいけない。
また、この「気づき」は僕を次のステージに導く重要なカギにもなるのだろう。
このことだけでも東京に行った価値があったと思った。
さて、そんなこんなで国会に到着。驚いたのは、警察の数が段違い!護送車だらけであり、50メートル間隔に一人はいたんじゃないかな。
なにも悪いことはしていないのに、謎の緊張感に包まれる。
とりあえず国会を生で見た感想は、でかい・立派・緊張感であった。あそこは精神衛生上あまりよくない。
時刻はこの時10時前であり、朝、池袋に着いたときにたまたま目に入った「もうどく展」に行こうと思っていたので、池袋に戻った。
これに行こうと思ったのも、いつかSNS上でこの展示を知ったからである。
そんなことを考えていると、自分の行動は情報に支配されているなと感じるね。
さて、肝心の展示だが、朝早く、平日だったこともあり、人はほとんどおらず、ゆったり周ることができた。
他にも蜘蛛やワームのような、いかにも毒がありそうなやつや、スカンクや鯉など、あまり毒性があるとは思えないような生き物もいた。
展示自体はそこまで多くはなかったが、なかなか満足のいく内容だった。
この展示と同じ場所で、プラネタリウム「ナオト・インティライミ 僕らが空を見上げる理由」が開催されていたが、今回は行かないことにした。
時刻は12時前。
この時に、この旅のメインである「ブラックボックス展」についてツイートが更新された。
さて、これはどうしたことか。
せっかく東京まで来たのに入れない可能性があるだと…。
なかなか鬼畜だが、とにかく2時頃に現地に向かうか、と思い、とりあえずなんとなく表参道に行くことに。
表参道には勝手におしゃれなイメージがあり、とりあえずおしゃれなランチを食べるしかねえと思っていたので、なんとなくおしゃれな雰囲気のところに行ってみた。
おしゃれ慣れしていない僕は、何を頼めばいいかわからないので、他の人を観察し、注文している人が多そうなものを頼むことにした。
これがいけなかったのだが、このときは知る由もなかった…。
注文したものは「シンガポールライス・フォーセット」。
そもそもシンガポールライスも、フォーも食べたこともないし、存在すら知らなかったが、とにかくトライである。
見た目はおいしそうというかおしゃれで、いかにも女子が好きそうな感じである。
さて、いざ実食…。
…味がしねえ!!
生春巻きは食感のみ。フォーは味がない味がしている。シンガポールライスは何で食べればいいのかわからん!そもそもこのソースの役割は!?
とことんおしゃれ慣れしていない。食べることがほとんど苦行だった。パクチーが鼻に刺さる…。
こんなことならチキンクリスプ12個買ったほうが幾分か幸せな人生が送れただろう。
もうおしゃれには惑わされんぞ…。
なんとか食事を終え、しばし携帯の充電をしながら次の予定を考えていたら、13時頃になった。
次なる行先が決まった。「ka na ta」に行こう。
というわけで、電車に乗り込み「代々木公園」へ。
GoogleMapによると、駅から少し歩くが仕方ない。雨の中店舗を目指す。
店舗は住宅街にあり、周りに何もなさ過ぎて本当にここであっているのか心配になるほどだった。
ここかな?と思ったところにとりあえず入ってみると、どうやら正解だったようで安堵した。
しかし、どうやらまだ営業時間前だったみたいで少し変な感じになってしまったが、大丈夫と言ってくれたので、結果オーライである。
店内は凄く落ち着く雰囲気で、ぜひとも一度行かれることをお勧めする。
もちろん、服自体のクウォリティも良い。
結局、二着買うことになり、最近作ったクレジットカードで買ってやろうと思ったのだが、どうやらVISAとMasterCardしか使えないらしく、JCBで作った僕は泣く泣くコンビニでお金を降ろすことになった…。
無事購入を済ませ、店を後にしようとしたが、居心地が良かったので、そのままカウンターに腰掛け、店員のカルロスさんと世間話で盛り上がり、結局、一時間半ほど滞在してしまった。
まぁ、楽しかったので結果オーライである。
時刻は15:30。
店を後にし、六本木へ向かう。
その時、就活で東京に来ていたSくんから連絡があり、中目黒らへんで会おうと言っていたのだが、僕の予定が狂ったので、結局会えずじまい。すまない。大阪で会おう!
そして、結局16時頃に六本木に着いたのだが、なかなかの長蛇の列。雨が降っているのに。
とりあえず最後尾を目指し歩みを進めるが、なかなかゴールが見えない。
結局、六本木中学校前まで列が伸びていた。その長さは約150メートル程。
校門から出てくる中学生は、謎の列に興味津々で、訳がわからないようだったが、当然の反応である。普段ではありえないことがそこで起こっていたのだから。
そんな感じで並び続けること約一時間。とうとうゴールが見えてきた。
入り口前には屈強そうな黒人。なかなかの厳つさである。しかも、見る限り5人に2人くらいは入場を断られているようだった。なかなか緊張する。
ドキドキしながら入れることを祈り、とうとう順番が来た。
その様子がちょうど撮影されていたので結果は動画を見てもらおう。
ちなみに僕は前から5人目の全身真っ黒野郎です。
保存版 pic.twitter.com/GdMvpb8iDo
— りょーた (@1mn_ryota_raiv) 2017年6月18日
おわかりいただけただろうか。
そう…しっかり弾かれているのである…。
わざわざ東京まで行ってこの仕打ちはないだろうと、一瞬思ったが、意外と心はすがすがしく、自分には入る必要がなかったんじゃないかと思えた。
というわけで、「ブラックボックス展」のために東京に行ったが、結局目的は果たせなかった。
しかし、それもまた経験であり、そこに行った自分しかわからないものもあるはずだと思い、それすらも気づきであった。
結局、自分が信じたいもの、見たいもののために行動した時点で、それはかけがえのない経験であり、気づきであるのだと改めて感じた。
※現在「ブラックボックス展」のネタバレが解禁されて、賛否両論出ていますが、やっぱりその場に足を運んだ時点で、自分の中で答え合わせは既に終了していたのだと思った。
その後は、東京にいる友達のAくんと池袋に飲みに行き、近況を話し、楽しい時間を過ごすことができた。早く大阪に戻って来いよ!
そのまま池袋発のバスに乗って帰った。いや、その前にauスマートパス会員限定のミスド200円券を、相変わらずの乞食マインドを発揮し、池袋のミスドでドーナツを買って帰った。
帰りのバスは行きよりも少し広く、隣の人も華奢で、疲れも半端じゃなかったので、ぐっすり眠ることができた。
途中のSAでの休憩すらも起きられないほどには疲れていたね。でも、おかげで大阪に着いたときはあまり眠くなかった。
大阪には水曜日の6:15に着いた。
すごく長い一日だった。得るものもたくさんあった。
感じ方は人それぞれだけれど、できるだけ肯定的でいたいよね。
目に見える表面上の内容を鵜呑みにして、本質を捉えようともせず、「匿名」に守られ攻撃する。愚かで醜い。
それには教育が間違いなく必要だと思える。
そう感じながら、また僕は働こう。
そんなことをその時は感じていたかはわからないけれど、心意気は大切だね。
大阪の朝は綺麗だった。朝は全てがリセットされ、そこからスタートするからか、浄化されている感じがした。
これも、今回東京に行ったことで感じることができたことだ。
人生には「気付き」がたくさんある。すぐそばにあるものは、自分に新たな気付きを与えてくれるものなのかもしれない。
当たり前と感じているものから、まったく新しい「気付き」があるかもしれない。少なくとも僕はそう感じている。
行動や経験はいつでも人生を彩ってくれるはずだ。
後は「気付く」ための勇気が少しいるだけ。
一度しかない人生。どうせならカラフルになれればいいと思う。
暗闇から光を見つけ出そう。
真実の必要性。
真実とは。
嘘やいつわりでない、本当のこと。まこと。真実は事実と同様で、皆が一致する一つの場合もあり、人それぞれに複数存在する場合もあるが、一般的には、他者との関係性を前提に社会で合意して共有できる皆が一致する、より公的で社会性を有する事柄を真実と言う。人間は社会を構成する前提がある社会的動物なのであり、真実は真実でもある事実の提示や自明な範囲で皆で一致し、共有されるべき事が求められる対象であるが、私的かつ個人的な範囲では他者と一致していなくても、その人物の主観という範囲での合意として真実と言えるが、人間が社会的動物として生きると言う前提がある以上、その趣での真実は他者との社会的な関係性の中で個人的な主観が許されない場合は真実ではなく、相手から見れば嘘ともなりえる危険性を孕んでいる。
なんだか回りくどい表現ではあるが、要はこういうことである。
- 皆が納得できるような根拠や事実の提示があり、それが疑いようのない場合。
- しかしながら、主観的な真実もあり得る。
- しかし、その場合は、嘘だと思われることもある。
といったところだろうか。
現在、我々が「真実」という言葉の意味を思い浮かべるときは、一番上に書いた内容のことを思い浮かべるだろう。
この「真実」という言葉の共通認識こそも、「真実」であると認めることができる。
常識なんてものも、ある程度の共通認識があることから、「真実」のように捉えることができるだろう。
しかし、それだけが真実ではない。
上記したように、主観の範囲で、その人が「真実」だと思っていることは、その人の中では「真実」であり、また同時に、客観的な「真実」がその人にとっては「嘘」となることもあり得る。
言っていることがよくわからないのは、まだあなたが常識や普遍的な概念である「真実」を疑ったことがないからである。
芥川龍之介の『藪の中』という短編をご存じだろうか。知らないという方は青空文庫にて読むことができるので、ぜひとも一読していただきたい。
複数の視点から同一の事象を描く内的多元焦点化(ジュネット)の手法がとられ、殺人と強姦という事件をめぐって4人の目撃者と3人の当事者が告白する証言の束として書かれており、それぞれが矛盾し錯綜しているために真相をとらえることが著しく困難になるよう構造化されている。その未完結性の鮮烈な印象から、証言の食い違いなどから真相が不分明になることを称して「藪の中」という言葉まで生まれた。
この物語では、当事者三人の証言が、それぞれ矛盾することにより、真実がわからない、という趣旨のものであり、実際、私も初めて読んだときは衝撃を受けた。
ここで扱う真実とは、共通認識による真実であるが、当事者三人にとっては主観に基づく真実を懺悔していることに過ぎず、誰かが嘘を言っているわけではないのである。
私は当初、三人のうち誰かが認識を誤ったと思えるようなトリックが文章中に隠されているのだと思っていたが、そもそも真実というものの見方に、絶対的な信頼を置いていたからに過ぎず、認識を誤っているのは紛れもなく自分自身だということに気が付いた。
何を言っているかわからないだろうが、そもそも真実なんてものは最初から自分の中にしかなく、それを誰も知り得ることはできないのである。
現代では、インターネットが発達し、科学で解明できることも増え、それが共通の真実だという思い込みの中で人々は生活している。
真実だと思われているものは、客観的に観測することができ、人々の中で感覚を共有できることから真実だと思われているだけに過ぎず、それは絶対的ではない。
それでも人は真実を追い求める。
では、真実を真実足らしめるものはなんなのか。
それを皆が見つけることができれば、人類、否、この宇宙全体の生物は幸せになることができるだろう。
世界はあなたであり、私であり、それは宇宙でもある。
見る角度を変えれば、丸が三角にも四角にもなり得る。
人は答えを求めるが、他人の手垢に塗れた答えは、あなたを本当に幸せにするだろうか。