「君の膵臓をたべたい」実写映画が絶賛されている違和感。
こんにちは。
「君の膵臓をたべたい」いい小説でした。
だが、映画!てめぇはダメだ!
あまりにも内容が薄すぎる。
原作を読んでいないまま映画を見ると、また、感想も変わっていたかもしれないが、原作を見た上で観賞すると、ほんとうに残念な出来だったと言える。
大切な部分がごっそりとカットされている。
そもそも、あれではなぜタイトルが「君の膵臓をたべたい」なのか、本当に理解できている人は少ないのではないか。
また、主人公の名前についても、あまりにも教養がない人が見れば意味がわからないだろう。
何故、春樹なのか。何故、咲良なのか。
それがないと、本当にこの作品の良さを理解することはできないだろう。
そもそも、「クラスメイトくん」や「仲良しくん」などの呼び名にも意味があるのに、あれでは、ただ春樹の名前を呼ばずに、敬称で呼んでいるという風にしか捉えられないのではないか。
実際にあの映画作品を見て、自分以外の人がどのようなところに感銘を受けたのかはわからないが、感動という点では、間違いなく原作を読んだ方がいいだろう。
だからといって、映画でも感動できないというわけではないし、むしろ、映像な分、映画の方が泣ける!みたいな感動はあるだろう。
しかし、原作で覚える感動は、映画での感動とはベクトルが違うと考えた方がいい。
「感動」という言葉の意味を、なんとなく「泣ける」と捉える人が多いと思われるが、今一度、「感動」とは何なのかを考えて欲しい。
私は原作至上主義ではないし、原作よりも面白い二次創作物も知っている。
しかし、本作品では、あまりにも核となる部分を削ぎ落としているので、完全なる改悪だと思われる。
映画を見た方、是非とも原作もみて下さい。
世界は狭いほうが幸せ?広いほうが幸せ?
こんにちは。
僕にとっていまのところ人生の命題なのですが、見えている世界は狭いほうが幸せなのか。それとも、広く世界を見ることができるほうが幸せなのか。
僕はもちろん世界は広いほうが幸せだと思うし、常々それを伝えているわけなのだが、狭い世界で自己完結している人もいるので、どっちの方がいいのかなと思いました。
そんなこと、個人の自由であることは重々承知なのだが、どうしても疑問が残る。
そもそも、かつての僕は今よりも見えている世界が狭く、割と自己完結していた。正直、それでも不自由なく生活することはできたし、あえて多くをせず、今あるものを深めようと思っていた。
実際、そうすることで、特定の分野について深く知ることができたし、おおむね満足していたのだが、それですべてが満たされることはなかった。
なんというか、自分がやらなかったことに言い訳をしたり、そんなもの必要ないと情報をシャットアウトしたり、自分のテリトリーから出ようとしなかったように感じる。
高校の頃までは、ある程度学校生活の中でやることを見つけることができたり、やることにある程度の制約があったりしたので、やることへの取り組みの方法や、それを他の友達より深めたりすることで、他人との差別化を図り、自分自身、ある程度の地位を確立していたと思うし、自分にも自信があった。
しかし、大学に入り、大学の雰囲気に馴染めなかったり、やることも自分で見つけなければいけなかったりで、理想の自分とのギャップを感じながら、しかしどうにもできない毎日を過ごしていた。
今感じると、やっぱり大学の頃の自分は魅力的ではなかった。
とにかくやらないことに理由をつけたり、それを正当化することで何とか自分を保っていた。まあそれも保てなくなったのだけれど、その話は割愛。
とにかく、何もしないことを正当化したり、否定したりすることは、結果的に自分の首を絞めることになるなと思いました。
否定した時点で、それに興味が湧いたとしても、それに取り組みづらくないですか?
現状、僕は今まで自分が否定し続けてきたものを今行っていますが、昔の自分のマインドを保ったままだと、他人からどう思われているか気になって仕方なかったと思います。
過去の自分は死んだと割り切らないと、ほとんどの方は自分が否定したことを自分はできなくなってしまうんじゃないかなと思います。
今だって、毎日のように芸能人や議員のスキャンダルがワイドショーで取り上げられているけれど、それによってたかって否定や攻撃する人は、自分がその状態になったときどうするんだろう。
そんなことには絶対ならないというだろうけれど、絶対なんてありえないし、状況によっても変わってくると思う。
これは不倫などのスキャンダルだけにいえる話ではなく、日常生活にも影響している。
例えば、これまで海外旅行を否定し、海外に行くまでに、日本をもっと知ったほうがいいなどと、正論じみたことをいっていたとしよう。その人がたまたま海外旅行に誘われたとして、海外なんて行く前に国内をしっかり旅行しよう、なんて言い出せるだろうか。
もし仮にそう言い出せたとしても、その海外旅行が無料だったら行くのではないだろうか。
そうだとしたら、海外旅行に行かない理由は、国内をもっと知ったほうがいいからというわけではなく、ただただ金銭的な問題なのではないだろうか。
また、その無料海外旅行に行って、それが本当に楽しかったりしても、これまで同様、海外旅行を否定することができるのだろうか。多分できないだろう。
つまり、自分の殻に閉じこもり、その世界だけで満足している人は、このような状況に出くわすとどうするのだろうかという疑問がある。
人間、他者と関わり生活していれば、生きているだけ世界が広がる気づきや経験をすることとなる。
人間は一人では生きていけない。必ず他人と関わり、その都度、新しいことを知る機会が訪れる。
それを否定し続けることはできるのであろうか。
僕は無理だと思う。いつまでも同じコミュニティに身を置くことは簡単であり、非常に楽であるが、それで満足できる人はそう多くはないのであろうか。
なんとなく現状に不満を抱くが、どうしたらいいのかわからないと感じるのではないだろうか。
そこから抜け出す方法は一つしかない。
何事も否定せず、知らないことは学んだり、経験することである。
また、すでに知っているものでも、別の見え方を発見できるかもしれない。
世界を広げるとはそういうことである。
一歩踏み出してみんなで幸せになろう。
遊ぼうぜ!!
何でもは知らないわよ。知ってることだけ。
こんにちは、みんなのヒロイン羽川翼です。
さて、今回のタイトル、
「何でもは知らないわよ。知ってることだけ。」
この言葉は、『化物語』をはじめとする西尾維新のライトノベルシリーズ『〈物語〉シリーズ』の登場人物・羽川翼が、主人公・阿良々木暦との会話の中で使用する言葉であり、羽川の知識量に感心した阿良々木が「お前は何でも知ってるな」と言うと羽川は「何でもは知らないわよ。知ってることだけ」と返すのがお決まりとなっている。
実際、羽川翼の博識っぷりは相当のものであり、どのような質問にも答えられ、本当になんでも知ってるんじゃないか?とさえも思います。
だから、「知っていることだけ。」というセリフに、当時僕はとても違和感を感じていました。
実際なんでも知ってるじゃん!とも思っていました。
質問の内容に一貫性がなくても、どんな話題にも対応できる。それなのに何でも知らないとはどういうことなのかと感じていました。
しかし、最近になってようやくその意味がわかるようになってきました。
というのも、最近僕自身が「何でも知っているね」と言われることが多くなったからです。
確かに、日々知識や情報は増えてはいますが、まだまだ、何でも知っているとは言えません。
そうでなければ、ソクラテスの「無知の知」という言葉を座右の銘にもしないでしょうしね。
当たり前ですが、人は知っていることだけしか知りません。
それはすべての人に共通することだと思います。
僕は、自分の知識を広げようと思って情報に接しているわけではなく、単純に一つのものを知ろうとすると、それに付随して、別分野の知識も付くと考えています。
ある程度一つのものを知ると、別分野の知識につながるポイントが必ずあります。
このことが、点と点を結ぶということなのでしょう。
そして、その点と点が結ばれると、また、別の点にたどり着くことができます。
そのようにして、知識は体系となり、それが世界を広くしてくれるものだと感じています。
話は戻りますが、自分の知らないことを知っている人は、それだけ広い世界を生きているということだと思います。
広い世界を生きるということは、考え方も多様であり、視点もまた多角的ということです。
それゆえ、自分の持っている世界より、広い世界を持っている人のことを、「何でも知っている」と感じることも無理はないと思います。
世界は自分で広げることができる。
自分の世界はまだまだ狭いと感じること、それが世界を広くする入り口だと思います。
言わずもがな、今回の羽川翼のセリフは、僕の世界を広げる入り口、きっかけだったと思います。
というよりは、世界が広くなったから、それが入り口だったと気づけたわけですが…。
また、僕が「何でも知っているね」と言われた時は、「何でもは知らない。知っていることだけ知っている。」と返すようにしていますが、
それに対して相手の反応も、羽川翼を知っているか知らないかで大きく異なります。
知っている人はこちらが意図することをメタ認知できますが、知らない人にはそれはできません。
つまり、前者は点と点が繋がった状態でありますが、後者には繋げる点がないということになります。
とにかく、僕がここで伝えたいことは、
知識は世界を広げる入り口となること。
その知識は目の前にあること。
そのものについて深く考えることで、知識が広がること。
知識が広がれば、世界が広がり、見え方が大きく変わること。
普段からそれを意識すること。
得た知識はすぐに活用すること。
インプットだけでなく、アウトプットすること。
自分が何も知らないことを自覚すること。
以上です。
見えなかったものが見えるとかなり生きやすくなります。
闇の中にしか光はありません。
知らないという闇を、知るという光で、自分の世界を明るくしてください。
その一人一人の世界と世界が交わり、皆でこの世界を照らしましょう。照らしあいましょう。
それが、愛することへの入り口となります。
主張の重要性。
みなさん、自分を主張することは得意ですか?
日本人は特に自己主張が苦手な民族だと言われています。
思いやり?協調性?人の気持ちを考える?
そういったことを学校で嫌という程、刷り込まれてきたかと思います。
他人の気持ちを汲み取ることは美徳である。
自分の為を思って言ってくれているんだ。
素晴らしいじゃありませんか。
その謙虚な心構えは忘れないでください。
しかし、だからと言って自分の主張を曲げたり、押し通そうとしなかったり、自分が伝える為に最大限努力しなかったりすることに、僕は全く魅力を感じないし、無価値であると常々思っております。
日本人の美徳として、一を聞き、十を知るというものがありますが、他の国ではそれは通用しません。
アメリカなんかは十を聞き、一を知るとも言われています。
だから、外国人に俳句なんか聞かせても、ほとんどの人は「それで?」となるでしょう。
例えば松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句を聞いても、蛙が古池に飛び込んだことはわかったけれど、それがどうしたの?
となるわけであります。
僕は、この俳句を聞き、その情景を思い浮かべることができますが、日本人でも皆ができることではないと思います。
日本人でも、俳句を聞いて、「それで?」となる人は多々いると思います。
僕は別にそれはそれでいいと思います。
感じられる人は感じられない人にはわからない何かを知ることができますが、逆に、感じられる人は、感じられない人がどのような気持ちなのかを知ることができません。
それは、個人のフィーリングの問題なので、統一する必要はなく、強要することもできないのです。
問題なのは、それを強要する人がいるということです。
今回は俳句を例に出しましたが、日常生活でも同じことです。
「あなたの為を思って言っているんだ」「もっと人の気持ちを汲み取れ」
こんなことを誰しも言われた事があると思います。
そして、これまでほとんどの人は、自分のことを思ってくれているから、その人の気持ちは汲み取らないと、と思ったりするわけです。
しかし、本当にそれでいいのでしょうか?
少なくとも僕は全く納得できません。
むしろ、本当に自分のことを思っているのなら、最後まで自分が納得できるまでやらせてくれと思うからです。
だから、僕はそのようなことを言ってくる相手とは徹底的に戦います。
そもそも、こちらに汲み取る義務はありません。
しかし、学校教育の刷り込みにより、我々は他人の気持ちを汲み取ることが美徳だと教え込まれてきました。これは洗脳といっても過言ではありません。
もちろん、他人の気持ちを考えることは大切ですが、それを考えた結果、どのような行動をするかは、個人の自由であり、強要できないものです。
しかし、我々は半ば盲信的に、他人の気持ちを汲み取ることが正義だと信じています。
我々が求められているのは、他人への同情ではなく、皆が最大幸福を享受できるようにすることです。
例えば、皆が仕事を残ってやっているからといって、自分は仕事がないのに、早く帰るのが申し訳ないと感じるということは、ナンセンスという他ありません。
無駄な同情心、他人と同じ立場に自分を持っていくことに何の意味もなく、むしろ思考停止し、社会の発展を妨げることに他ならないのです。
しかし、これだけ強く言っても「現実はそんなに甘くない」という人が必ず出てきます。
もうね、アホかと思うわけですよ。
一番現実を見て、皆が幸福を享受できるように僕は働きかけているというのに、「あいつは協調性がない」だとか、「自分のことしか考えていない」などと思われるのは心外なわけであります。
現状に愚痴をこぼし、やってもないのに無理だと諦める。
みんなが頑張っているからこれは仕方がないことだ。
自分たちが頑張らないと回らないシステムが悪い。国が悪い。
そんな何の解決にもならない愚痴は聞き飽きました。
そうやって愚痴をこぼして、周りと違うことをしている人を叩くことで、自分を保つことしかできない人は、今後もそうすればいい。
そうやって、自分以外の誰かがみんなを幸せにしてくれるのをただ待っていればいい。
そんな機会は永遠に訪れはしないが。
僕はここ最近、あえて過激なワードを使い、Twitterやその他SNS、また、リアルな友人関係や職場で主張を繰り返しています。
このブログでもこれまで主張しかしてこなかった。
しかし、現状を変えることに必要なのは、まず、自分が主張することに始まるということを僕は知っているので、このような行動に出ているのです。
僕の言動の本質をどれだけの方が理解してくださっているかはわかりませんが、それでも僕は伝え続けていきます。
それは、伝えることに意味があると僕は知っているからです。
そのことについて過去にブログに書きましたので、そちらもまた見てください。
抽象的ではありますが、理解できる方はいらっしゃると信じています。
とにかく、今回僕が言いたいことは、自分が主張をしなければ、現状は今後も変わらないということです。
行動は、すべての物事を変える力があります。
自分が自分の世界にあるものに、どのような意味づけをするか、どのように解釈するか、このブログをたまたま見たあなたも、この僕の主張をどのように解釈するか、それは人それぞれですが、僕がした主張があなたに何かしらの影響を与えられるのなら、それはとても幸せだと感じます。
現状に満足していない方、多くいらっしゃるはずです。
そう感じるほど、世間はギスギスしています。
そんな生きづらい世の中、僕は御免です。
何としてでも皆が皆を尊重できるような、多様性を認められる世界を作りたいです。
その為には、何度も言いますが、たとえ誰もついてこなくとも、自分が思ったことを主張し、行動することだけです。
一歩踏み出す勇気が、間違いなく人生を変えてくれます。
どうか、あなたが一歩踏み出す勇気のきっかけになれれば幸いです。
堅苦しくなりましたが、今後ともよろしくお願いします。
P.S. 近日、対話イベントを行いたいと思います。
しかし、開催するには皆さんの協力も必要です。
みんなで一つのものを作り上げましょう。
ということで、イベントには開催はクラウドファンディングを使用する予定です。
詳細はまた発表しますので、続報を待て(`・ω・´ )!笑
国民総情報弱者時代。
なかなか攻め込んだタイトルだが、僕は喫緊の課題であると思っている。
そもそも、情報弱者とはどのような人のことを言うのか。
情弱(じょうじゃく)はもともと「情報弱者(じょうほうじゃくしゃ)」の略称だが、この意味で使われることは少なく、インターネット上などでは別の意味で用いられることが多い。
1.情報弱者。情報環境が良くない場所に住んでいたり、情報リテラシーやメディアリテラシーに関する知識や能力が十分でないために、放送やインターネット等から必要な情報を享受できていない人。 → 情報格差を参照。
2.転じて、各種の情報に疎くて上手に立ち回れない人を揶揄して言う言葉。 → インターネットスラング#蔑称などを参照。
この日本に住んでいて、1の意味のような情報弱者の方は申し訳ないが論外である。
論外とはなかなか辛辣な言葉ではあるが、そもそもこの意味での情報弱者の方々は、このブログ記事にすらたどり着けないので問題ない。
とにかく、このブログを見ることができているあなたは少なくとも1の意味の情報弱者ではない。安心してくれたまえ。
しかし、問題はこの2の意味での情報弱者である。
僕は揶揄するつもりでこの言葉を使うことはないが、実際にこの意味での情報弱者は多いと感じる。
情報は携帯、スマートフォン、パソコン、何かしらの電子端末機器を持っていれば、容易に手に入れることができる。
それらがなくてもテレビなどで情報を手に入れることはできる。
新聞だって本だってなんだっていい。
我々は常に多くの情報を手に入れる機会がある。
しかし、その情報をうまく活用できているか、と聞かれれば、容易に頷くことはできないだろう。
つまり、僕が思う「情報弱者」とは、メディアリテラシーが欠如している人のことであり、その人の数はかなり多いのではないかと思う。
メディアリテラシーの欠如の要因
メディアリテラシーの話に入る前に、メディアリテラシーとは何かを定義する必要がある。
メディア・リテラシー(英: media literacy)とは、世の中にある数え切れないほどの沢山の情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。
要は情報を正しく読み取る力のことである。
さて、では何故このメディアリテラシーが身についていない人々が多いと感じるのか。
それにはいくつかの要因があるはずである。
その要因を一つずつ考えていきたい。
こんなことを言ってはなんだが、そもそもこの考えるということがメディアリテラシーを培うために非常に大切なことだということを言及しておく。
まず、僕が考える第一の要因は「時代の変化」である。
時代の変化と言ってしまうとかなり抽象的であり、元も子もないじゃないかと思う人がいるかもしれない。
しかし、時代の変化と言われても、具体的にどのように変化し、過去の我々と現代の我々では何が違うのかを明確に理解している人はほんの少数ではないか。
僕たちは時代が変わっているということはなんとなく理解しているが、そこに正面から向かって何が変わったのかを考えたことがある人は少ないのではないか。
僕が伝えたいことはまさにそのことである。
人は漠然とした概念をなんとなくわかった気になる傾向がある。
国語の文法なんかが最たる例であり、普段何気なく使っている日本語を文法的に解釈しようとすると全然分からなくなるような感じである。
なんとなく理解して日本語を使っているが、それを一つ一つ意味づけをしようとした途端、訳が分からなくなってしまう。
それほど、我々は普段からわかった気になっているものに囲まれて生活しているということだ。
時代が変わったと言われるとなんとなくは理解できるが、どのように変わったのかと問われるとうまく答えられない人がほとんどであるのも無理はない。
では、実際に時代はどのように変わったのか。
一番大きく変わったことは、やはりインターネットの登場であろう。
ほとんどその一点に収束すると言っても過言ではない。
これまでの時代では、人々が情報を得る手段は人から教えてもらうことか、本などの媒体を介してのみであった。
その結果、学校ができ、地域のコミュニティもでき、国家的な教育が行われていた。
人々は情報を得るために国家や地域、家庭などのコミュニティに留まるほかなく、そこには縦の関係があった。
教えを請わなければ学ぶことができない。
人々はその個人が持つ能力により、その人価値を決定していた。
教師と生徒という縦の関係。
職人と弟子という縦の関係。
上司と部下という縦の関係。
その場で生きていくには能力のあるものに従わなければいけなかった。
その場を共有する人達でしか、その人達の価値を見出すことができなかった。
かなり閉鎖的な時代であった。
しかし、現代では誰もが自由に思想を発信でき、それを共有できるようになった。
能力だけ高い人間に対して、団体で交渉できるようになった。
それだけでなく、全ての人が全ての人の価値を実感することができ、また、学習も電子端末一つでできるようになった。
もう理不尽な権力に従わなくてもいいのである。
インターネットを介して情報を手に入れることができるようになり、誰でも知識を習得することができるようになった。
これは人々の可能性を大きく肥大させることになった。
しかし、ここで一つ問題が生じる。
時代は変わり、情報革命が起こったが、人々の意識はまだ革命が起こっていないのである。
つまり、未だに人々の思想は前時代的だということである。
とはいっても、近年、ものすごいスピードで時代が変化したことは否めない。
人々の思想がそれに追いつかないことも無理はない。
しかし、だからといって進むことをやめる理由にはならない。
人々は進まなければならない。
これまでは知識の伝達にコストがかかっていたが、現代ではほぼノーコストで知識を得ることができる。
つまり、これまで知識を得るために使っていたコストを、他のものに使用することができる。
一体、その他のものとはなんなのか。
無論、「教養」である。
「教養」とは、知識を活用する力である。
活用とは、主に実生活に役立てるという意味で使われることが多い。
しかし、これまで知識を得ることに重きを置いていた人々は、「教養」の大切さに気付いていない。
実際、子どもの学習指導をしている時によく感じるのは、
彼らはとにかく答えを知りたがるということだ。
解き方なんてものは興味がなく、ただただ模範解答を求める。
これは現代的な知識の習得方法と、前時代的な教育が招いた最悪の結果である。
未だに学校では答えを求め、子ども達に模範的な行動をとらせたがる。
そもそも模範的とはなんなのか。
そこに疑問を持つ子どもは多いと思うが、それを解決する方法を知らないのである。
つまり、答えの求め方は知っているが、解き方は知らず、また、それの活用もできないという最悪の状態が現代の教育である。
これを解消するには、まず大人が自身の教養のなさに気づき、メディアリテラシーを高めなければならない。
このままでは非常に日本が危ない。
教養を高めるために
ではどうすれば教養を高めることができるのか。
それは質の高い対話である。
個人でも深く掘り下げることができる人間は一定数いるが、多くはないだろう。
そもそも、ほとんどの人は自分が何も知らないということを知ってすらいない。
知的好奇心の赴くまま、物事を掘り下げていければ、「教養」は自ずと付いてくるだろう。
しかし、これまでそれができなかった人たちは、おそらくこれからも難しい。
とにかく、この時代に置いて必要な能力は「教養」である。
だから、とにかくひたすら誰とでも対話し、疑問を掘り下げよう。
近々、個人的に対話イベントを開催したいと思っているので、興味がある方は是非とも来ていただきたい。
共に深い学びを、気づきを共有しましょう。
ではでは本日はこの辺で。
P.S. 要因を一つ一つと言ったが、結局言いたいことは「時代の変化に順応すること」でした。
要因も「時代が変わった」これにつきます。
AITOWA
前回は「恋愛」について書かせてもらったが、皆さんの期待に応えることはできただろうか。
個人的には、当初書こうとしていた「恋愛」の価値・テクニック(?)のようなものに全く触れられなかったので、少々不完全燃焼気味ではあるが、それ以上になかなか面白い考察ができたので満足である。(自画自賛)
そんな前回の記事をまだ見ていない方、一度目を通して頂ければ幸いです。
さて、今回は前回書けなかった「恋愛」について書かせていただこう。
前回あんな仮説を立てたけれども、結局どんな人でも入り口は「恋愛」であり、「愛」であるのではないか。
そんな「愛」について、考えを深めましょう。
愛とは。
さてさて、「愛」について語らせていただきますが、そもそも「愛」とは何なのか。
普段何気なく「愛」という言葉の意味を理解しているつもりではあるが、実際に「愛」とは何なのかと質問されて具体的に答えることができる人はほとんどいないんじゃないでしょうか。
というわけで、今回もWikipedia先生にお世話になりましょう。
Wikipediaを見てみると、やはり曖昧な説明が羅列されているが、その中で興味深く、僕が「愛」に対して抱いている価値観に限りなく近い記述があったので、それを紹介しておこう。
相手が幸せでいてくれればいいという気持ち。
これである。この一文にすべてが集約されているといっても過言ではない。
この「相手が幸せでいてくれればいいという気持ち」について、これから論じていきたいと思う。
相手の幸せは自分の幸せ。
さて、早速宗教臭えと思った方が少なからずいらっしゃると思う。
しかし、そう思っている方はもしかすると「宗教」や「愛」について、少なからず偏見があるのではないかと思う。
もしかすると、そういった偏見自体がある種「偏見教(もしくは懐疑教)」のような「宗教」なのかもしれません。
まあ、そんなことはひとまず置いといて、とりあえずフラットな視点で見ていただければ幸いです。
見出しにパワーワードと言わざるを得ない文言を記したが、そもそも人間はどんな時に「幸せ」と感じるのか。
「幸せ」の定義は人それぞれであり、一概には言えないものではあるが、その「幸せ」は一時的なものではなく、継続して常に感じられることが望ましいと思う。
しかし、人はある程度幸せを享受することを限定し、その一時的な快楽の為に日常を犠牲にすることを厭わない傾向がある。
代表的なもので言えば旅行に行くことや、美味しいものを食べる、欲しいものを買うなどである。
だが、やはりそれは一時的なものであり、継続するのは難しい。旅行など、ほとんどの人は月に一度も行けないだろう。
また、食事や物品の購入などは、比較的容易に行えるが、得られる幸福度(?)が少なく、暴飲暴食を繰り返したり、少しだけ欲しいと感じたものを何度も購入してしまったりする傾向があり、その度自己嫌悪に陥る人が多いのではないか。
僕自身もそんな経験はあり、酒を飲みすぎて次の日嫌になったり、買ったはいいものの全然使わなくて勿体無いなぁと感じることなどこれまでたくさんあった。
それでも人が何度も繰り返すのは、その「幸福」の享受が容易であることがまず第一の要因であるだろう。
しかし、もちろんそれだけではない。
厳しい言葉で言えば、「幸福」だと感じる事象・行為があまりにも身近にないという場合である。
端的に言えば、私生活が充実しておらず、手の届く範囲の充実を求めた結果なのではないか。
あくまでも推論の範囲だが、なんとなくそんな経験を皆してきたと思う。
さて、もしそうだったとしたら「幸福」は消費され続けなければならない。
幸福はインスタントなものでもなければ、モーメンタリティなものでもない。
我々が幸せを享受し続けるにはどうすればいいのか。
そう、「愛」こそが幸福なのである。
愛、永遠。
愛とは。改め、「愛、永遠。」
何故「愛」こそが幸福なのか。
決してこれから話すことは宗教でもなければ、理想論でもない。実現可能なリアリズム的発想である。
そもそも「愛」とは、冒頭でも説明した通り「相手が幸せでいてくれればいいという気持ち」であり、相手が幸せであるということは自分も幸せでいれるということである。
文字にすると凄く簡単なことなのだけれど、いざ実行となると非常に難しい。
何故なら人は常に無意識のうちに競争状態にあるからである。
しかし、無意識下なのでそれは意識すれば変えることができる。
「競争状態」とはどういう意味だろうか。
例えば「嫉妬」なんかは最たる例である。
「嫉妬」の感情は無くならないんじゃないかと思われるほど、人々は嫉妬する生き物である。
では、何故嫉妬をするのか?
そこには自分と比べ、他人の方が優れているところがあるからである。
否、優れていると思い込んでいるからである。
そもそも、優れているとはどういうことなのか。
嫉妬の最たる例である「恋愛」で言えば、自分が好きな人が、自分以外と楽しそうにしていたりすると嫌な気持ちになったりすることがあるだろう。
その時、何故嫉妬するのか?
それは、自分ができないことを他人にはできているからである。
その時点で競争相手は他人ということになる。
もう少しわかりやすく言えば、他人に対して劣等感を感じている。
しかし、この劣等感は非常に危険で、その他人を敵とみなしてしまう。
本当は自分の不甲斐なさに苛立っているのに、わかりやすく他人にその苛立ちをぶつけてしまう。
恋人との関係もそうであり、自分の恋人という認識から自分は他人と違う特別な人間だと思い込み、その特別な地位が脅かされると、他人や恋人自身を責めてしまう。
つまり、自分と他人を比べ、その中で上下を作ることが嫉妬に繋がり、その価値観を持ち続ける以上、他人は常に自分の敵となり得るのである。
そのような人には他人を愛することは難しいだろう。
それでも愛しているという人は、本当の意味での「愛」を理解できていないのかもしれない。
何故なら「愛」は自分の存在はなく、そこにあるのは「私達」だけなのである。
「I」ではなく「We」であり、「You」なのである。
さて、ナンノコッチャワカランと思う。
あまりにも話が飛びすぎているからだ。
しかし、ここに全てを書ききることはできない。
また、これは対話の中で理解していくものだと感じている。
しかし、既存の価値観を一度ひっくり返し、新たな視点でものを考えることが求められている。
これも例外ではなく、理解ができないものには一度これまでの考え方を変えることで見えてくることもあると思う。
とにかく僕が言えることは、「愛」こそが全てであり、それは「永遠」であることだ。
とはいう僕もまだその境地を心から理解はできていない。
それにはまだまだ経験や実感が足りていない。
だから、その経験や実感を得るために何かをやらなければならない。
そこで、一度皆で話ができるようなイベントを開催するつもりだ。
詳細は後日発表するので、良ければまた見ていただきたい。
とにかくそれまで一人一人「愛」について考えていただきたい。
みんなで世界を変えよう。
「愛」に溢れた世界にしよう。
掲げろピースサイン✌️
結局「恋愛」なんじゃね?
さて、今回はBooks reviewとは別の記事を…。
実際、このままひたすら本の紹介だったら見る気も失せるでしょうしね。
というわけで、この世に生を受けたからには、皆さんの関心ごとのひとつである「恋愛」について一筆取らせていただく次第でござる。
いつもの堅苦しい(?)記事とはおさらばじゃ!
恋愛とは?
「恋愛」つまり、英語では「Love」、フランスでは「Amour」のあれである。
時には人に生きる活力を与え、はたまた、恋煩いのような恋の病と呼ばれる症状が出たり何かと人を翻弄してくるあれである。
あと、なんとなく見出しをピンクにしたんだけど、「恋愛」といえばピンクだよね!青とかのイメージだともはや冷戦状態だよね!(何を言っているかわからない)
とまあ、こんな具合で我々の日常に欠かすことのできないこの「恋愛」だが、20代前後の人々にとっては喫緊の課題である。
というのも、我々には母と父がいて、その二人から生み出されている。そうやって生み出された人々がこの世に大体70憶人もいるわけである。
一人の例外もなく、この世に生を受けているものは全てこの方法によって生まれてきた。
となると、意識はしていなくとも生物的に恋愛をし、子孫を残すことは至極まっとうなこととして受け入れられ、幼き頃から自分自身もいずれ恋愛をし、結婚をするのだと、遺伝子レベルで刷り込まれていてもおかしくはない。だから、人は恋と向き合い、恋に悩むのではないかと考えられる。
となると、目的はあくまでも「子孫繁栄」であり、「恋愛」は手段に過ぎないのかもしれない。
しかし、我々は「恋愛」に重きを置き、目的であるはずの「子孫繁栄」をタブー視しがちである。それは一体何故なのか…。
…くそう、当初書こうと思っていた方向性と全く違う疑問が生まれてしまったぜ…。
ちなみにいつものブログも書いているうちに問題意識が変わり、着地点の見えない内容になってしまっている…。思考のつながりはやはり無限大ですね。
何故「恋愛」に重きを置くのか。
しかし、せっかく出た疑問なので、掘り下げて考えてみよう。
ついでに、今度は見出しを水色にしてみたが、これはこれで「爽やかな恋愛」感が出ていいね。言うなれば高校生の恋愛って感じ?まあ、あんまよくわからんが、とりあえずパステルカラーだとなんだか大丈夫そうです。
さて、何故「恋愛」が重要視されているのかでしたね。目的が「子孫繁栄」であるのなら、特に恋愛をせずとも一気に目的に向かえばいいのに。
実際、人間以外の動物は「恋愛」を必要としておらず、一夫多妻のような形や、繁殖を終えると食べられてしまう動物もいたり、生物としての目的を全力で果たそうとします。
しかし、人間だけが「恋愛」をし、また、それに重きを置いている。
人間が他の動物と決定的に違うのは、高度な知能の有無です。
人間は高度な知能を持ち、自らの生活をより豊かにするべく考え、創造し、非常に便利で効率のいい社会を形成してきました。
それなのに、この「恋愛」については、未だに非効率的であり、複雑であります。
なんなら、遥か古の時代の方が、この「恋愛」や「子孫繁栄」については効率的だったとも思われます。
実際に、一夫多妻制や夜這いも日常茶飯事だったと言われています。
これはなかなか興味深いですね。
ここで一つ仮説を立てるとすれば、知能が低いと「恋愛」を重視しない傾向がある。
ということです。
これはあくまでも仮説ですが、よくよく考えてみれば日常でもそのようなことを感じる人もいるのではないでしょうか。
また、現代に比べ、古代の方がIQが低かったのでは…と思いましたが、調べたところ、どうやら現代人のほうが古代人に比べIQが低いことがわかったようなので、この点については疑問が残ります。
環境や知識の差が大きいのでしょうか?
しかし、すべての人が知能指数が高かったとは考えにくそうです。
現代では、誰もが教育を受ける権利を有しており、ある程度の教養はほとんどの人が身に付けられます。
しかし、昔は教育を受けることができるのはほんのわずかな人であり、ほとんどの人々は教養がなかったと考えられます。
また、和歌には比較的「恋愛」について歌ったものが多いですが、それらはやはり文字を読み書きできた教養のある人のものであり、このことからも「恋愛」には多少の教養が必要だという仮説を立てることができます。
そう考えると、年々複雑化していくように感じられる男女の関係もなんとなく納得できるような気がします。
何故手段が目的化したのか。
せっかくなので色の三原色である黄色も使いました。特に意味はありません。
さて、ここまでくると、なんとなく「恋愛」が重視され、「子孫繁栄」が軽視されているのかが見えてきました。
まず、「恋愛」が重視されている点ですが、「子孫繁栄」のきっかけ作りとして「恋愛」という感情が生まれるように遺伝子に組み込まれていたものが、どうやらそれ以上の価値を見出した者が現れ、深く掘り下げてみると、また、感情を揺さぶられるような体験を発見し、その繰り返しがまた遺伝子に組み込まれ(もしくはミームとして人々に伝わり)、現在のようなスタイルになったのではないか。
全く何を言っているかわからないが、俺もわからない。ただなんとなくニュアンスをくみ取ってくれ…。
とにかく、手段として用意された「恋愛」だが、その目的である「子孫繁栄」を達成する為に、とにかくステータスを大幅に振り分けたと考えてくれればいいのかもしれない。
つまり、目的である「子孫繁栄」は、必ずしも達成しなければならない目的なので、その入り口である「恋愛」に食いついてもらうために、かなりの餌をばらまいたといえばわかりやすいかもしれない。
入り口を非常に多く設定し、誰もがそこに達することができるような仕組みを「恋愛」に組み込んだのだ。
それゆえ、楽しみの幅が非常に多く、知識・教養のあるものは、その魅力に気づき、いつしかその魅力が重要視されるようになったのではないか。
我ながらなかなかの考察だと自画自賛している。
そんな中で知能の低いものが、目的である「子孫繁栄」を達成している様を見ると、なんだか軽蔑したくなる気持ちになるのも不思議ではない。「恋愛」の楽しみを知らずに目的だけにしか目がないのは愚かだと思うのも無理はないかもしれない。
また、生物の目的である「子孫繁栄」は、その重要性から鑑みて、とてつもない快感を得ることができるのは理にかなっていると言える。
もしもこれが苦痛であれば、人類はとっくに滅亡しているだろう。
なので、快楽に溺れる人々を見た知識人が軽蔑をするのも、無理はないと考えられる。
その考えがミームとなり、現代に伝わっているのではないか。
真相はわからないがそういう可能性もある。
すっかり着地点を見失う。
さて、とりあえず一旦ここで考察を終えたいが、ふと、もう一つ仮説を思いついたので、もう少しだけお付き合い願おう。拒否は受け付けん!!
もう一つの仮説とは、現代が科学で解明されていることが多いという部分にある。
我々が生きている現代は、ほとんどの現象が科学によって解明されている。
しかし、人の心というのはいつの時代もわからないものだ。(心理学は発達しているが、完全ではない)
そんな何事もわかる現代において、身近なわからない「恋愛」は魅力的に写るのではないか。
もともと人は知的好奇心を有しているが、現代のような「わかる」時代では、積極的に物事を考えることが少なくなっている。
教育界でも非常に問題視されているが、知的好奇心が完全になくなったわけではないということは、「恋愛」の存在が証明してくれているのではないかと思う。
人は「恋愛」をし、それに悩まされる生き物であり、そこで学びを得る。
なるほど、「恋愛」をしている人の方がなんとなく深い人間のように感じるのもこれが所以なのかもしれない(しかし、幸せな恋愛に限る)。
そうとなると、人々がまずしなければならないのは「恋愛」なのではないか?
義務教育に「恋愛」を組み込むべきである!
実際に学生時代に「恋愛」ができなかった友人はなんとなく苦しんでいるように感じるぞ!
今後、そのような人をなくすためにもみなさん、積極的に「恋愛」をしましょう。
なんとなくタイトルにあった終わり方ができたので良しとしよう。
ではまた。
次は「恋愛」の攻略方でも書こうかな。(需要なし?)
いや、そもそも攻略できるほどの実力はないか…。
「恋愛」(入門編)にしよう。そうしよう。
ではこうご期待!!