杞憂、はたまた核心。

思考の嗜好性を垣間見せ

結婚という名の契約。

結婚。

端的に言えば、男女の仲を社会的に認めることである。

こう言えば、あまりにも悲観的な雰囲気ではあるが、実際のところそういう側面は大きいと思える。

 

現在、報道の多くが、有名人の不倫報道になっている。

私はそもそも不倫に目くじら立てて、非難すること自体が不毛であると思う。

たかだか書類一枚を役所に提出しただけで、一生涯その人と付き合い続けなければならないというのは、どうにも腑に落ちない。

と、こんなことを言うと、倫理観の欠如した不道徳者だと思われるかもしれない。

しかし、今一度考えてみてほしい。

我が国で一夫一妻制となったのは明治31年のこと。

わずか、100年ちょっとの歴史しかない。

そりゃぁ、そうせざるを得ない理由はもちろんあったのだと思う。

しかし、それまでの少なくとも1900年頃までは、そうでなかったのが通説だった。

だからといって、一夫多妻がいいと言うわけではない。

そういうことではなく、流石に結婚したからといっても、人間の本質的な部分は変えられないのではないかということだ。

結婚してきた人の中にも、結婚するまでに多かれ少なかれ、様々な人を愛してきたと思う。

それが愛に満たないものであっても、好きという気持ちは、ほとんどの人が経験したことがある感情だと思う。

 

 人は人を愛することによって、初めて自我を強く意識する生き物だと思う。

その愛を一人に捧げるべきだという理論ももちろんわかる。

しかし、本当にそれだけが正しいのだろうか?

そうでない気がする。

というよりは、他にも正しさはあってもいいと思う。

もちろん、愛は独りよがりではダメだと思うので、双方の合意は必要であると思う。

しかし、それよりも気持ちが先走ることもあるだろう。

つまり、何が言いたいのかというと、結婚した所帯持ちの人が、その相手以外の人を愛することを、一括りに不倫という現象で表してしまうのはなんだか悲しいと思うのだ。

 

実際、そこには「欲」しかない浮気なのかもしれない。

しかし、「情」があるのかもしれない。

それはもちろん当事者にしかわからない。

だから、そもそも他人が口を出す必要は全くないのだ。

思慮の浅い正義感が文化を殺す。

不倫から生まれる文化があったっていいと思う。

それを理解できないのならば、理解しなくてもいい。

だけれど、頭ごなしに否定する必要もないんじゃないか。

それによって自分は何か不利益を被るのか?

そうでないのなら、決して口出す必要はない。

 

結婚がそんな陳腐な契約であるのならば、私は結婚しなくてもいいと思う。

人間関係に契約書は必要ない。

そんな陳腐なものであってたまるものか。

どうか、愛が溢れる世の中になりますように。

TPO。

事あるごとにTPOをわきまえろと言われてきたような気がする。

しかし、私はどんな時でもTPOをわきまえているつもりだ。

 

この間、職場内の研修があったが、その時の私の服装はラフなものだった。

研修自体は滞りなく進み、何事もなく終わりを迎えようとしていた。

その時である。

ふいに私の服装が指摘された。

どうやら、「スーツに準じた格好をしてこい」ということらしかった。

ちなみに、私以外の同僚は皆スーツを着用していたのだが、私はどう考えてもそうする必要性を見出せなかったから、そのままの格好で参加した。

 

私は空気を読んでスーツを着用することもできたが、それはTPOとは全く関係ないことだと感じている。

TPOをわきまえることは空気を読むこととは似て非なるものであるからだ。

TPO。つまり、時と場所と場合に即した行動や服装を選択するということだが、これは強制されるものや、形式化されるものではないからである。

そもそも選択とは、内発的なものであり、外発的な同調圧力などによって行われる行動ではないからである。

他人に不快感を感じさせたり、迷惑だと思われたりしないような、それでいて自分が気持ちよくいられる格好であればそれでいいんじゃないのか。

 

服装こそその人の人間性が色濃く出るものだと思う。

それなのにスーツという形式にこだわることは、服装が持つ役割を全く生かせていない。

百歩譲ってスーツが指定されていたとしても、その中で自分の思想性や人格を大いに発揮できるようなコーディネートで臨むべきだと思う。

全員が同じ服装、髪型で、座って質問に答えるだけの短時間の面接なんかで、その人のことなんてほとんどわからない。

それだったら、一張羅でどんな表現を使ってもいいから、その人の思いや興味関心、趣味、野望などを聞かせてほしい。

そうじゃなければ面接なんてほんとにクソの足しにもならない。

 

空気を読むことは、それ自体に何の価値もない。

その空気よりも素晴らしいと感じるものを信じ続ける。

それこそ一番素晴らしく、TPOをわきまえていると思う。

 

私が考えるTPOをわきまえるということはこうだ。

他人に危害を加えることなく、自分自身を最大限発揮できる状態。

これしかない。

だから、もう不毛な空気の読み合いはやめよう。

また、そのように外部に自分の思想を委ねるのもやめよう。

本音で生きよう。

趣味がもたらす恩恵。

こんにちは。

突然だが、僕は割と多趣味な方だと思う。

多分、みなさんも多かれ少なかれ趣味があると思うけれど、趣味ってほとんど人生だと思うんですよ。

仕事が趣味な人は本当に人生楽しいんだと思う。

あいにく僕は今の仕事が趣味になるほど楽しいとは感じていない。

対人の仕事だけれど、結局ルーティンになりがちだし、面倒ごとも起きない方が良さそうだ。

 

僕は色んな人に考えを伝えて、また、色んな人の考えを聞いて、さらにいいものにしていきたいと思っている。

だから、人に伝えられる仕事をしてみたのだけれど、それが伝わっているのかはわからない。

また、こうやってブログを書いてみたりするけれど、誰が読んでくれているのかわからないし、何かが伝わっているのかも確認のしようがない。

それは仕方ないことだから、悪いことは考えないで、ただ、発信するしかないのだけれど、どうもやっぱりビビってしまう時はある。

というわけで、ずっと更新したいと思っていたブログを更新するまでに、これ程時間を要してしまいました。

これからも、スローペースになるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします。

 

とまぁ、前置きはこれくらいにして、本日は「趣味」について話そうと思う。

ちなみに僕の趣味は思いつくだけでも「読書」、「カメラ」、「旅」、「ファッション」、「ハンドボール」、「競馬」、「哲学」などなどである。

せっかくだから、一つ一つについて書いていきたいけれど、この記事だけで書くと、文字数がバカ多くなってしまうので、小分けにして書いていこうと思う。

 

というわけで、本日は「読書」について書こうと思う。

「読書」は割と趣味の代表格だと思うんだけれど、最近、僕が読んでいるのは「ビジネス書」が多い。

小説もたまに読むけれど、そのほとんどは「SF」か「サスペンス」である。

 

ビジネス書とは言っても、読んだことがあるのはほとんど有名なもので、『もしドラ』とか『人を動かす』とか、最近のものだと『多動力』とか『革命のファンファーレ』とかである。

しかし、それらの根源にあるものはやっぱり『嫌われる勇気』だと思っている。

『嫌われる勇気』を読んだあとに、他の書物を読むと、全てが繋がって感じられる。

そもそも、『嫌われる勇気』自体がこの世に存在する生命や物質との繋がりをわかりやすく説明してくれている本になっているので、他の本同士の繋がり、思想の繋がりを理解しやすくなる。

しかし、これらの繋がりを感じるには、既存の価値観を一度解体し、再構築する必要がある。

それをうまくさせてくれるのが『嫌われる勇気』だと思っている。

まだ読んでいない方は是非とも読んでいただきたい。

 

他には小説であれば、芥川龍之介作品だったり、『ライ麦畑』、『星の王子様』、『君の膵臓をたべたい』など、これもまたメジャータイトルである。

最近は『ノルウェイの森』を読んだ。

内容は『ライ麦畑』とほぼ同じで、境界性パーソナリティ障害に焦点を当てた話である。

思慮深さが逆に自我を保っていられなくなるのだろう。

それほどまでに人間は弱い生き物である。

また、最近は『ジョジョ』にはまっているので、『恥知らずのパープルヘイズ』も読んだ。

ジョジョ』は人間賛歌がテーマであることから、キャラ一人一人の人間性が詳細に書き表されている。

非常に勇気をもらえる作品なのだが、今作では、勇気が出せなかったキャラが主人公であり、とても感情移入しやすい作品となっていた。

しかし、その中で成長していく姿をみて、こちらも成長する勇気をもらえる。

僕にとって読書は起爆剤に近い。

考えるきっかけを与えてくれる。

行動するきっかけを与えてくれる。

決断する勇気を与えてくれる。

 

読書をしたことがなければ、この本に勇気をもらったという気持ちは一生わからなかっただろう。

読書をする意味がないという人は、読書をしたことがない人である。

もしくは、本気で本に向き合わなかった人である。

ただ、なんとなく目で文字を追うだけの作業では、得られるものは何もないだろう。

しかし、読書が与えてくれるものは非常に大きい。

もし、この記事を読んで、少しでも興味を持ってくれれば、是非とも何か一冊、短編でもなんでもいいので、向き合ってほしい。

その方法がわからないのであれば、僕と一緒に読書をしよう。

一緒に読み合わせよう。

これまで僕が読んだ本を覚えている限りまとめた画像を最後に貼り付けて、この記事を終わらせようと思う。

気になったものがあれば、是非ともコメントしていただければ返させていただきます。

これに限らず、趣味は人生の幅を広げてくれるものだと思う。

次回は、最近はまっている「カメラ、写真」について書かせていただこう。

乞うご期待!!

 

ではでは。

 

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ぶち壊さなければならない偏見。

偏見って本当になんなんでしょうね。

最近、毎日ブチ切れている気がするけれど、この世の中には自分の頭でモノを考えることができない人間がどれほどいるんだ?

 

今回問題になった大阪府の高等学校の頭髪指導。

完全にバカしかいねぇ。

そもそもこの時代に染髪を禁止すること自体が不自然極まりない。

黒髪至上主義なんて昭和の負の遺産だよ全く。

 

とはいえ、僕自身もかつては黒髪至上主義だったのだが、考えが変わった。

というよりは、世界が広がったために寛容になれた。

 

そもそも偏見を持っている奴はことごとく世界が狭い。

世界とは価値観と価値観の触れ合いによって広がる。

つまり、何かを受け入れることで世界は広がる。

 

それをいつまでも学校でクソみたいな価値観の押し付けをしているようじゃぁ世界は広がらないし、子どもも健全に育つことができない。

 

少し考えればわかることだ。

このご時世、外を出歩けば目に付く髪の色はバラエティに富んでいる。

大学生なんて大体カラフルヘアーじゃねぇか!

似合ってるかどうかは抜きにして、本人がそれで満足し、それに対して批判しない世の中がすでに蔓延している。

 

それなのにいつまでも学校(小、中、高)は教師の意味不明な価値観を押し付ける、バカ育成機関として現存している。

反面教師にするには丁度いいが、どうにも子どもは力がないので、抗うことも許されない。

意味もわからず、ルールだからの一点張りで、社会性も全くない謎の価値観を押し付けられる。

 

子どももバカじゃないから、三年間というゴールが見えている期間は納得はできないにしても一応はそのルールを受け入れる。

しかし、それはただ消耗したくないからだ。

大体の子どもは大学に入ると髪を染めれるから今は我慢と自分に言い聞かせるが、そもそもその境界線はなんなのだろうか。

一体そこになんの意味があるのか。

大学生ら髪を染めていいというルールがあるのか?

否、そもそもそんなルール自体必要ないのである。

 

そもそも、ルールとは何のためにあるのかを考える人は少ないのではないか。

僕にはそんなことはできないが、周りの人間をみているとどうしてもそのように思ってしまう。

ルールとは何か、それをまず考えなければならない。

ルールだから守ると本気で思っているのなら、本当に危険だぞ。

そこにお前の意志はどこにある?

一体お前は誰なんだ?

何のために生きている?

人生に目的なんてないと思っているのなら、かなりマズイ。

明らかに生きることに対して受け身になりすぎている。

 

人はなぜ生きるのか。

考えたことがない人や、答えがわからない人は見つけてほしい。

そもそも、答えは誰かに教えてもらうものではない。

教えてもらうものだと思っていたのなら、それは学校に洗脳されている。

 

中身のないルールは偏見を生む。

髪を染めている人は真面目じゃないなんてどう考えてもおかしい。

しかし、その偏見を生み出したのは、昭和の負の遺産である「狂った校則」であることは自明だろう。

 

そんな偏見を生み出すものは、この世に必要ない。

何がグローバル社会だ。

何が生きる力だ。

何が主体的、対話的で深い学びだ。

 

運用する大人が腐り切ってやがるのに、そんなもの実現できるわけがねぇだろ!

教育を変えるなら、まず変わるべきは大人だ。

 

いつまで子どもを子どもだと思ってる。

テメェらとは生きてる時代が違うんだよ!

触れる情報の量が段違いなんだよ!

技術革新はすべての在り方を変える。

その変化に対応できない大人は淘汰されるべきだ。

 

年功序列なんて幻想はもう存在してねぇんだよ!

いつまでもそんな幻想にしがみ付いて、若い優秀な芽を潰すんじゃない。

みんなが対等で、すべての意見は尊重されなければならない。

ただ、その中で最良のものを常に選択しなければならない。

不要なものは捨てなければならない。

これまでそうやって世界は存続してきた。

 

これまでの人生が否定されたような気になるのもわからんでもないが、その程度で否定されるような人生にそもそも価値はない。

だから、これから生き直せばいい。

どうすれば全人類、全生物が幸せになれるのか。

これは一人一人の課題だ。

考えろ。偏見をなくせ。

すべてをフラットにみたときに、そこに残るのは何なのか考えろ。見付け出せ。

 

批判を恐れるな。中身のない批判はバカのお家芸だ。

そんな奴に嫌われたところで、いずれ嫌われていたと思えばいい。

たまたまタイミングがその時だっただけだ。

これで僕のことを嫌うならばそれでもいい。

ただ、常に本質を見抜く努力はしてほしい。

人生とは、自分だけのものだ。

世界もまた、自分だけのものだ。

自分の世界を素晴らしいものにしてほしい。

そして、それを皆で共有したい。

世界は広くて美しいはずだ。

『ジョジョの奇妙な冒険』はマジの自己啓発マンガ。

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最近、以前からオススメされていた『ジョジョの奇妙な冒険』を読み始めた。

現在は第7部の「STEEL BALL RUN」を読んでいる最中である。

 

 ストーリーはもちろん面白い。

しかし、これを読むタイミングは今が一番良かったとも思う。

これより以前に、ー例えば、大学時代にー読んでいたとすれば、今とは違った面白さを感じていただろう。

その理由として『ジョジョの奇妙な冒険』には多くの「自己啓発」要素があるからだと感じられる。

 

人間賛歌は勇気の賛歌ッ!

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ジョジョのテーマは「人間賛歌」である。

第1部で登場する「ウィル・A・ツェペリ」の有名なセリフがこちらである。

巨大な敵に立ち向かうノミ・・・

これは「勇気」と呼べるだろうかねェ。

ノミどものは「勇気」とは呼べんなあ。

それではジョジョ!「勇気」とはいったい何か!?

「勇気」とは「怖さ」を知ることッ!

「恐怖」を我が物とすることじゃあッ!
人間賛歌は「勇気」の賛歌ッ!!

人間のすばらしさは勇気のすばらしさ!!

いくら強くてもこいつら屍生人(ゾンビ)は「勇気」を知らん!

ノミと同類よォーッ!!

人間賛歌は勇気の賛歌であり、人間の素晴らしさは勇気の素晴らしさなのである。

 

勇気とは、本能のままに人間に挑むノミが持ち合わせているものではなく、

恐怖を知り、恐怖を超え、我が物とした時に初めて身につくものであり、

両者とも見た目は同じ、強敵に立ち向かうちっぽけな存在として映るが、その本質は全く違っているのである。

 

この「勇気」という言葉は、つまり「覚悟」と同様である。

第5部の主人公「ジョルノ・ジョバァーナ」のセリフでは、「覚悟」について言及されている。

「覚悟」とは………………

犠牲の心ではないッ!

「覚悟」とは!!暗闇の荒野に!!

進むべき道を切り開くことだッ!

暗闇の荒野とは、先に何があるかわからない。

その上、舗装もされておらず光もない。

常に「恐怖」が待ち受けているだろう。

しかし、その中に飛び込み、自らが光となり「道」を切り開く。

それにはとてつもない「勇気」が必要であり、「覚悟」が必要である。

 

「道」というのは人生における分岐点のことを言うのだろう。

我々は常に「道」を選択し、今日この日まで生きているが、「道」を選択するという時点では、本当の意味で自分の人生を生きているとは言えない。

既に舗装されている「道」を選んでいるということは、誰かが作った「道」を辿っていることに過ぎない。

自分の目的に合った最短の「道」がそこに存在しているのなら構わないが、大抵の場合はそうではないだろう。

それではその「道」を作った人を超えることはできないし、もしそのゴールに辿り着いたとしても、そこから進むにはまた自分でそこから道を作っていかなければならない。

 

現在、世界には多くの道が張り巡らされているが、まだまだ未開拓な場所は多いだろう。

どの道最終的には自分で「道」を切り開かなければならないのであれば、早いうちに切り開くスキルを身に付けたいとも思えなくはない。

 

道というものは自分で切り開くものだ

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ジョジョでは、「道」について言及されているセリフが多くある。

 

第3部主人公「空条承太郎

道というものは自分で切り開くものだ。

 

第5部登場人物「ブローノ・ブチャラティ

オレは「正しい」と思ったからやったんだ

後悔はない…こんな世界とはいえ

オレは自分の『信じられる道』を歩いていたい!

おまえが決めるんだ………

自分の「歩く道」は…………

自分が決めるんだ……

これらは自分の人生は自分が正しいと思ったことを「覚悟」し、行動すると言っているように感じます。

自分の歩く道は自分で作らなければならない。

それは他でもなく自分だけの人生だから。

 

しかし、これらと相反する考え方がジョジョの世界において、敵として現れます。

 

人は安心を得るために生きている

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ジョジョにおいて最大の敵といえば、間違いなくDIOであろう。

このDIOの発言はジョジョサイドと真っ向に対する思想を反映している。

最もDIOの思想性が現れている発言はこれだろう。

「人間は誰でも不安や恐怖を克服して安心を得るために生きる」
名声を手に入れたり、人を支配したり、金もうけをするのも安心するためだ。
結婚したり、友人をつくったりするのも安心するためだ。
人のために役立つだとか、愛と平和のためにだとか、すべて自分を安心させるためだ。
安心を求める事こそ人間の目的だ。

戦いに敗れ、欲するものが手に入らなかった場合・・・

挫折感と敗北感を味わい傷つき・・・

そして、次なる戦いの時「恐怖」を感じることになる。

おれは「恐怖」を克服することが「生きる」ことだと思う。

世界の頂点に立つものは!

ほんのちっぽけな「恐怖」をも持たぬ者ッ!

この時点でDIOは「恐怖」を我が物とできていないと感じられる。

ジョースターの血筋が自らの脅威となると感じ、エジプトに身を潜め、スタンド使いを送り込む。

DIOは一番が好きであり、No. 1になりたい。世界の頂点に立ちたいと常に思っている。

しかし、それは価値の基準が自分ではなく、常に誰かと比較することでその価値を感じることができる。

 

DIOとは目標とするものが違うが、第4部のボスである「吉良吉影」にもDIOのような思想を伺うことができる。

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この吉良吉影自分で常に思うんだが、強運で守られてるような気がする…

そして細やかな気配りと大胆な行動力で対処すれば…

けっこう幸せな人生を送れるような気がする…

クックックックッ…。

激しい「喜び」はいらない…

そのかわり、「深い絶望」もない…

「植物の心」のような人生を…

そんな平穏な生活こそ、わたしの目標だったのに…。

これらの発言も、人生の価値を自分以外に求めていると言っていいだろう。

ただ平穏に過ごす、そこに自分自身の強い意志は感じられない。

 

また、第2部のボス「カーズ」

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どんな手をつかおうが…………

最終的に…勝てばよかろうなのだァァァァッ!!

第5部のボス「ディアボロ

『キングクリムゾン』の能力では、この世の時間は消し飛び・・・・・・

そして全ての人間はこの時間の中で動いた足跡を覚えていないッ!
『空の雲は、ちぎれ飛んだ事に気づかず!』・・・・・・
『消えた炎は、消えた瞬間を炎自身さえも認識しない!』
『結果』だけだ!この世には『結果』だけが残る!

これらのように、目的のためならどんな手を使おうが関係ないという思想が敵にはあると感じる。

結果、ディアボロはゴールドエクスペリエンスレクイエムにより、永遠に過程を繰り返す「終わりがないのが終わり」という状態で終焉を迎える。

 

人間としての強弱

スタンドは精神力の具現化であるが、敵は総じて人間としての弱さがあった。(カーズは完全究極生命体となったが、人間性は感じられる)

敵にはどこまでも人間味があった。

というより、日本人らしさが非常に色濃く感じられた。

周囲と自分を比べ、目的は常に他人を意識していると感じられる。

それは本当の意味での「正義」とは言えないのではないか。

「正しいこと」にも様々あるが、荒木先生も言うように、本当に強い人は「悪いことをしない」のである。

争いは「正義と正義のぶつかり合い」によって起こるが、

そこで本当に勝つことができるのは、人間的に強い人だろう。

自らの利益を超越した「正義」を実行する者が勝者となる。

むしろそうなるべきである。

 

しかし、だからこそDIOのような人間らしさのある敵キャラが人気であることも頷ける。

ニヒリズム的ではあるが、自分の存在価値を見つけるための「正義」をDIO吉良吉影などは実行していたのだろう。

 

人間賛歌がテーマのこの漫画には、我々が生きる手助けとなる思想が多く描かれている。

 

是非この機会にご一読されてみてはどうだろうか。

 

 

ジョジョの奇妙な冒険 全63巻完結セット (ジャンプ・コミックス)
 

 

 

「君の膵臓をたべたい」実写映画が絶賛されている違和感。

こんにちは。

 

「君の膵臓をたべたい」いい小説でした。

だが、映画!てめぇはダメだ!

あまりにも内容が薄すぎる。

 

原作を読んでいないまま映画を見ると、また、感想も変わっていたかもしれないが、原作を見た上で観賞すると、ほんとうに残念な出来だったと言える。

 

大切な部分がごっそりとカットされている。

そもそも、あれではなぜタイトルが「君の膵臓をたべたい」なのか、本当に理解できている人は少ないのではないか。

 

また、主人公の名前についても、あまりにも教養がない人が見れば意味がわからないだろう。

何故、春樹なのか。何故、咲良なのか。

それがないと、本当にこの作品の良さを理解することはできないだろう。

 

そもそも、「クラスメイトくん」や「仲良しくん」などの呼び名にも意味があるのに、あれでは、ただ春樹の名前を呼ばずに、敬称で呼んでいるという風にしか捉えられないのではないか。

 

実際にあの映画作品を見て、自分以外の人がどのようなところに感銘を受けたのかはわからないが、感動という点では、間違いなく原作を読んだ方がいいだろう。

 

だからといって、映画でも感動できないというわけではないし、むしろ、映像な分、映画の方が泣ける!みたいな感動はあるだろう。

しかし、原作で覚える感動は、映画での感動とはベクトルが違うと考えた方がいい。

 

「感動」という言葉の意味を、なんとなく「泣ける」と捉える人が多いと思われるが、今一度、「感動」とは何なのかを考えて欲しい。

 

私は原作至上主義ではないし、原作よりも面白い二次創作物も知っている。

しかし、本作品では、あまりにも核となる部分を削ぎ落としているので、完全なる改悪だと思われる。

映画を見た方、是非とも原作もみて下さい。

 

 

君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

 

 

 

世界は狭いほうが幸せ?広いほうが幸せ?

こんにちは。

僕にとっていまのところ人生の命題なのですが、見えている世界は狭いほうが幸せなのか。それとも、広く世界を見ることができるほうが幸せなのか。

僕はもちろん世界は広いほうが幸せだと思うし、常々それを伝えているわけなのだが、狭い世界で自己完結している人もいるので、どっちの方がいいのかなと思いました。

 

そんなこと、個人の自由であることは重々承知なのだが、どうしても疑問が残る。

そもそも、かつての僕は今よりも見えている世界が狭く、割と自己完結していた。正直、それでも不自由なく生活することはできたし、あえて多くをせず、今あるものを深めようと思っていた。

実際、そうすることで、特定の分野について深く知ることができたし、おおむね満足していたのだが、それですべてが満たされることはなかった。

なんというか、自分がやらなかったことに言い訳をしたり、そんなもの必要ないと情報をシャットアウトしたり、自分のテリトリーから出ようとしなかったように感じる。

 

高校の頃までは、ある程度学校生活の中でやることを見つけることができたり、やることにある程度の制約があったりしたので、やることへの取り組みの方法や、それを他の友達より深めたりすることで、他人との差別化を図り、自分自身、ある程度の地位を確立していたと思うし、自分にも自信があった。

 

しかし、大学に入り、大学の雰囲気に馴染めなかったり、やることも自分で見つけなければいけなかったりで、理想の自分とのギャップを感じながら、しかしどうにもできない毎日を過ごしていた。

今感じると、やっぱり大学の頃の自分は魅力的ではなかった。

とにかくやらないことに理由をつけたり、それを正当化することで何とか自分を保っていた。まあそれも保てなくなったのだけれど、その話は割愛。

 

とにかく、何もしないことを正当化したり、否定したりすることは、結果的に自分の首を絞めることになるなと思いました。

否定した時点で、それに興味が湧いたとしても、それに取り組みづらくないですか?

現状、僕は今まで自分が否定し続けてきたものを今行っていますが、昔の自分のマインドを保ったままだと、他人からどう思われているか気になって仕方なかったと思います。

過去の自分は死んだと割り切らないと、ほとんどの方は自分が否定したことを自分はできなくなってしまうんじゃないかなと思います。

今だって、毎日のように芸能人や議員のスキャンダルがワイドショーで取り上げられているけれど、それによってたかって否定や攻撃する人は、自分がその状態になったときどうするんだろう。

そんなことには絶対ならないというだろうけれど、絶対なんてありえないし、状況によっても変わってくると思う。

これは不倫などのスキャンダルだけにいえる話ではなく、日常生活にも影響している。

例えば、これまで海外旅行を否定し、海外に行くまでに、日本をもっと知ったほうがいいなどと、正論じみたことをいっていたとしよう。その人がたまたま海外旅行に誘われたとして、海外なんて行く前に国内をしっかり旅行しよう、なんて言い出せるだろうか。

もし仮にそう言い出せたとしても、その海外旅行が無料だったら行くのではないだろうか。

そうだとしたら、海外旅行に行かない理由は、国内をもっと知ったほうがいいからというわけではなく、ただただ金銭的な問題なのではないだろうか。

また、その無料海外旅行に行って、それが本当に楽しかったりしても、これまで同様、海外旅行を否定することができるのだろうか。多分できないだろう。

 

つまり、自分の殻に閉じこもり、その世界だけで満足している人は、このような状況に出くわすとどうするのだろうかという疑問がある。

人間、他者と関わり生活していれば、生きているだけ世界が広がる気づきや経験をすることとなる。

人間は一人では生きていけない。必ず他人と関わり、その都度、新しいことを知る機会が訪れる。

それを否定し続けることはできるのであろうか。

僕は無理だと思う。いつまでも同じコミュニティに身を置くことは簡単であり、非常に楽であるが、それで満足できる人はそう多くはないのであろうか。

なんとなく現状に不満を抱くが、どうしたらいいのかわからないと感じるのではないだろうか。

 

そこから抜け出す方法は一つしかない。

何事も否定せず、知らないことは学んだり、経験することである。

また、すでに知っているものでも、別の見え方を発見できるかもしれない。

 

世界を広げるとはそういうことである。

一歩踏み出してみんなで幸せになろう。

遊ぼうぜ!!