杞憂、はたまた核心。

思考の嗜好性を垣間見せ

教育の本質とはなんたるか。

 私は現在ひょんなことから公立中学校で働いている。

 一応「先生」と呼ばれる立場なのではあるが、実際に授業を行ったり、校務分掌を行ったりしているわけではなく、他の先生に比べ、どこか一歩引いた視点から教師をさせていただいている。

 かねてから教師になりたいとは思っていたし、実際こうして職業として学校に関われるのは非常に恵まれていることだと感じている。

 今年度の四月、大学を卒業し、周りは社会人となり働きに出ている中、私は定職についていなかった(現在も定職ではないのだが)。その時に少なからず焦りがあったことは認めるし、先の不安もあった。

 そんな時に現在の仕事が決まり、何はともあれ安心した。

 教師になるには採用試験があり、それをまた受験するにしても現場経験がないのは非常にマイナスに働いてしまうので、それは何とか避けたかった。

 そんなこんなで色々な葛藤もありながら一年を過ごしたわけだが、やっぱり学校教育というのはことごとく自分に合っていない気がする。

 

 多様性・個性とはなんなのか。

 私はよく「個性的」だといわれることがあるが、自分ではそこまで個性的だとは思わない。もちろん自分よりもっと個性がある人もいるだろうし、自己表現がもっと独特の人も山ほどいる。しかし、私が個性的だといわれるのは何故なのか。私はこの根底には「学校教育」の影響が根強いと考えている。

 学校にはほとんどの人が通い、またほとんどの人が義務教育段階を公立の学校で過ごす。高校になると私立学校に行く人も増え、また、ある程度同程度の学力で区切られた集団となる。

 現在、私は公立の中学校で勤務している上、自身も小学校から高校まで公立の学校だった為、私立の学校がどのような教育をしているかはわからないが、公立の学校は大体どこも同じような雰囲気だと思う。

 学校では現在、「個性を伸ばす教育」や「選択幅の拡大」など、従来の行き過ぎた平等主義や画一性を是正した教育が求められている。

 これは、二十一世紀という時代に適応するためには必要不可欠であるし、日々生まれるテクノロジーや目まぐるしく変化する時代背景を鑑みれば当然の結果である。しかし、実際の教育現場ではまだまだこの様な考え方は浸透していない上に理解も得られていないのではと感じる。

 その要因の一つは、やはり教育者自身の個性がないことにあると感じられる。個性と一口にいっても定義も曖昧で、どこまでを個性として認識するかの線引きもあやふやなのだが、あまりにも無個性の集団であると感じる。

 私は「個性」とは「アクティブでポジティブなこだわり」という意味で捉えているのだが、教師になっている人はパッシブな人が多いように感じられる。言い方を変えれば非常に狭い視点で物事を捉え、その中で選択させられているように感じられる。

 それにはやはり目の前の仕事で精一杯という背景があるのだろう。若い先生に仕事が多く振り分けられているのが現状で、休みなしで働いている教師も非常に多い。

 そんな環境で生活しているので、もちろん視野を広げる為の時間もない。そしてその環境が当たり前となり、現状に疑問を抱く予知すらなくなる。典型的なブラック環境であり、また、日本人の国民性が仇となっている。そのような環境に置かれ、その上、年功序列の労働環境である。確実に悪循環である。

 さて、そのような余裕のない教師が教育を行うとどうなるのか。上から降りてきた仕事に精一杯になり、教育とは一体何のためにするのかと考えることすら忘れ、狭い価値観で子供たちの前に立つ。これでは良い教育的成果は期待できない。

 私は何も教師が悪いと言いたいわけではない。ただ現状を疑うことすらできないような教師が多いのではないかと危惧している。まだまだ私は若く、知らないことの方が多いとは思うが、それでも若いからという理由だけで自分の意見を言えなかったり、それを否定されたりすることは見当違いなのではないかと思う。

 教師は基本的に生徒を相手にする職業であり、常に自分が上の立場であるとはよく言われているが、そのことによって生じる弊害も無きにしも非ずなのではないかと感じる。「若いから」ただそれだけの理由でまともに取り合ってもらえなかったり、従わなければいけなかったりするのはどうも納得がいかない。わがままという言葉で片づけられるのかもしれないけれど、それも絶対に違うと思う。

 話がそれてしまったが、これは新しい教育者を教育するという点において一刻も早く改善しなければならない問題であると感じる。

 さて、本題に戻ろう。

 「個性を伸ばす教育」とはいうが、その足枷となっているのはやはり古くからほとんど変化のない校則なども関係しているであろう。

 校則で主に焦点となるのは「染髪」や「服装」、「装飾品」などであろう。

 職員室でよくこんな会話を耳にする。「○○の髪の毛が茶色いな」、「△△がパーカーを着てきている」、「□□がピアスをしていた」などなど。私にはこの会話の意図が全くわからない。一体何故それがダメなのか。大抵の場合説明もなく頭ごなしに指導する。

 そもそも一体これらの行為の何がダメなのか。外に出てみれば大体の人は髪を染めているし、女性なんかは高い割合でピアスを空けている。

 それなのに一体何故学校ではそれらの行為が許されないのか。また、パーカーなどの防寒着などは寧ろ着ることを推奨するべきでもある。

 私が考えてみたところ、学校では「おしゃれ」というものに非常に厳しいと感じる。染髪、装飾品などなど、それらは学校では必要ではないとされる。化粧も同じ理由であろう。私はこの風潮に強い危機感を覚える。

 現に、私の偏見かもしれないが教師は「おしゃれ」に疎すぎる。無難ともいえない言ってしまえば本当に「ダサい」服装であったり、常にジャージの人、すっぴんの人、様々である。時計は「G-SHOCK」、鞄は「THE NORTH FACE」などなど。もちろんこれらが悪いと言っているわけではない。ただもっと主体的に考えられないものかと思うのだ。

 以前私がヒッチハイクをしていたことを同僚に話すと、それはたいそう驚かれた。ただその驚きは純粋に凄いといったものではなく、まるで未知のものに出会ったかのような驚きであった。なんだかあまり肯定的でなかったのだ。

 同僚の私にさえもそのような反応だったので、もちろん生徒がやることも端から否定的である。しかし、本人たちはそのことに気付いているのかは定かではない。

 つまり、自分が理解できないことに対し非常に否定的なのだ。しかも理解できる範囲は限りなく狭い。それは学校という空間がそうさせているのかもしれない。実際に私ももっと長い時間学校にいるとそうなっているかもしれない。

 私は生徒がふざけてやっていることや、どんな形であれ自己を表現しようとしていることについて、寛容な姿勢を取っていた。しかし、それは学校という空間では悪とみなされるらしい。

 染髪が反社会的な行為と思われていたのはかなり昔のことだ。服装もまた然り。しかし、現代ではそれらはアートとして取り扱われる。インターネットが発達し、情報が手軽に入手できる時代。昔のような管理教育は限界を迎えている。

 とにかく、教師は他の大人に比べ、圧倒的に芸術への関心が薄いと感じる。芸術とは自己表現であり、それは個性や多様性とも密接に関わっている。また、芸術とは全ての行いに当てはまり、自己の意思が介在するものは全て芸術であるといえる。そのことに気づいていないのか自己表現である「ファッション性」に対して非常に否定的である。

 よく服装や装飾品は個性ではないという教師がいるが、それは間違いである。現に私が個性的だといわれる部分には思想性もあるだろうが、ファッション性も少なからず影響している。つまり染髪や装飾などは自己表現であり個性なのである。

 それを中高生にはまだ早いと思っているのか、はたまた理解できないだけなのか、もしくは深刻な社会的影響が起こりうることを危惧しているのか、真相はわからないが、もっと寛容になって個性を伸ばせる教育を提供するべきなのではないかと思います。

 そんなところばっかりに目を光らせ、指導のための指導をするんじゃなくてもっと大切なことがあるんじゃないかと思います。

 また校則などの拘束性(ダジャレじゃない)の無いルールは、押し付けるんじゃなくて、みんなで作るべきではないかと思います。そうすることで生徒と教師の距離感も縮まる上、信頼感も向上できるのではないかなと思います。

 考えて行動するのと、何も考えずに行動するのでは、やっぱり何かが違ってくると思います。

 「未来の大人が自己実現できるような社会を作るための教育」をしていかなければならないと思います。勉強はもちろん大切だけれど、勉強だけが全てじゃない。

 「未来につながる教育」が今求められている。