杞憂、はたまた核心。

思考の嗜好性を垣間見せ

変容と繋がり、経験の意義。

 

 最近、体験や経験に対しての接し方や価値観が変わってきた。

 以前であれば、体験や経験にそれほど価値を感じることがなく、ある程度のことは情報で賄えると思っていた。例えば、煙草を吸うと肺がんや疾病のリスクがあがるということは、実際に体験しなくてもある程度理解できる。

 

 体験や経験が大切だからと言って、煙草を吸うつもりは微塵もないが、その他多数ある未だに体験・経験したことのないことをどんどんやってみようと思うようになった。

 

 では、何故そう感じるようになったのか。これは今まで経験することをどこかで拒んでいた理由を話せばわかりやすいかもしれない。

 これまではやらないことに理由をつけて、自分を守っていたように思える。例えば、お金がない、時間がない、しても意味がない、もっと楽しいことがあるはず、などなど、主にマイナスのイメージを勝手に作り上げていたんですね。

 知り得る情報は主にネット。流行に乗るだけなのはなんだかダサい。そんな風に思っていたのかな?とにかくひねくれていたんですね。

 

 あたかも論理的に批判しているようで、内心自分でも詭弁であることを感じていたのかもしれない。やらないことで自分を周りとは違うと思いたかったのかもしれない。

 大学時代はそれが顕著だったかな。未成年なのに飲酒・喫煙。クラブで遊び呆ける。頻繁に開催される飲み会。そんなイメージが根強くあったのも原因かもしれないが、多分それについていくことができなかったんだろうね。

 今思うと高校時代と大学時代の差はそこで、高校時代は高校生らしく楽しいことを何でもやっていたし、周りも巻き込めていた。

 だけど、大学ではそれができなくなって、どんどん自分の殻に閉じこもっていったように感じる。もちろん、当時はあまり毎日が楽しいと感じられなかった。

 

 今になって過去を振り返って思うのは、やっぱりある程度起こり得る現象には原因があったのだなと感じた。まあ、今となってはその原因ってものの考え方が変わってはいるのだけれども、その話はまたどこかで。

 原因はやはり環境の中に自分を置いたときに影響するものであって、環境を主体として考えている以上、その中にいる自分にも影響が生じることは明らかだった。何言っているかわかんねえな。うまく説明するにはもっと前の段階から話さないといけないけれど、今日のところはこのままで理解していただけると幸いである。

 

 とにかく、周りと自分をどこかで無意識に比較していたのかもしれない。また、過去の自分とも比較していたとも思う。

 でも、結局この比較には何の意味もなくて、他人は自分と違うのは当たり前だし、自分自身の価値観も時間とともに変化していくものだと思う。

 

 僕は大学時代、高校の時が一番人格が優れていた時だとずっと思っていたし、公言もしていたが、それは変わることを恐れ、過去の価値観にしがみつこうとしていたのだと思う。また、そんな自分の価値観にわずかながらも自尊心があったが、その価値観が大学時代の自分の中に宿っていたとはとてもいいがたい。

 いうなれば、そこにあるはずのものがなく、自分は空っぽで、まさしく自我がない状態であった。当時、僕に関わっていた人たちには、いつも自我がないと言っていたが、その正体がこれである。

 新たな価値観を受け入れようとせず、しかし、それでも環境は変わり、無理にでも自分を変えなければならなかった。その結果、周りは見えず、自分のことばっかり考えるしかできなくなっていた。人生で一番ダメな時期だったね。

 

 さて、そこで話は冒頭へと戻るのだが、結局何故大学時代に新たな価値観が形成されなかったかというと、何もしなかったからである。

 その場に立ち止まり、傷つくことを恐れた結果がそれであり、自分も他人も傷つけてしまった。要は何もしてこなかったから、自信がなかったんだろうね。だけれど臆病な自尊心はそこにあった。まさに『山月記』の李徴さながらである。

 

 そんな僕に転機が訪れたのは、やはり環境の変化だろう。自分自身も周りも働きだし、情報もそれほど入ってこなくなった。大学時代はどんな人でもある程度自分の好きなことだけを好きな時間にやることができていたし、俗っぽい物事が日々溢れていたが、社会人となるとそんなものは見る影もなくなってしまった。

 

 もちろん僕も大学時代に比べれば時間も無くなり、多少忙しくはなったのだが、だからこそ自分と向き合い、時間を大切にしようと思えるようになってきた。

 それと同時に、日々楽しく過ごしたいとも強く思うようになったし、まずは自分を自分が満たしてあげないと、他人を満たすことなんてできないとも思った。

 

 幸い仕事は休みが多いので、とにかく休みは楽しいことをしようと思った。そうしているうちに、なんでもやってみることが大切だと気付いた。やらない理由を探すことは簡単だ。この世に完璧なものなんて存在していない。否定することなんて簡単にできる。

 だからこそ、世間的にいいイメージを持たれていないことや、法を犯すこと以外はなんでもやってみようと思った。やる人が一定数いるものは、やはり何か楽しいことがあるからだと前向きに考えるようになった。

 物事の捉え方も世界の見え方もいつだって主観的だ。だからこそ、自分の意識次第で捉え方も変えることができる。そこに他人の意見なんて関係ない。誰がどう感じるかではなくて、自分がどう感じるかが大切だと思う。

 

 このブログもそんな感じの理由で始めてみた。実際、誰がどのくらい見てくれていて、何を感じているのか知る由もないけれど、自分の言葉を伝えないよりはましだと思うし、それで悪く思われたとしてもそれはそれでいい。信じるしかない。

 

 僕は世界の全ての事象が繋がっていると思っていて、その繋がりをより感じられるのが、体験や経験であると思う。

 寺山修司は『書を捨てよ、町へ出よう』という作品を世に残したが、まさにその通りだと思う。知識だけつけて頭でっかちになり、何でも知った気になっているだけでは、それらを活用できない。

 なんでも経験してみると、思っていたことと違ったり、目的とは違った思いがけない発見もあるものだ。

 それを繰り返していくうちに、繋がりを実感できるんじゃないかな。こればっかりは暗黙知なので言葉には表せれないが、とにかく言えることはなんでもやってみることだ。WANIMAじゃないけれど。

 

 最後に、京都の将軍塚青龍殿に行こうとしたら、思いがけなくいいスポットを見つけることができたときの写真を載せます。

 実際に行動してみて発見することもあるんだなって実感を増やしていくことが大切な気がするよ。静かでいいところだった。

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