杞憂、はたまた核心。

思考の嗜好性を垣間見せ

Share the World.

 この世界で生まれたものは常に共有され、改良され続けている。全てのものが繋がり、それらを組み合わせ、また新たなものが誕生する。

 それは遥か昔から行われていたことであり、特に日本という国ではそれが顕著である。は

 しかし、情報化が進み、世界のどこにいてもこの世界で起こっていることが可視化されるようになった。それは、これまででは見えていなかったことまで見えるようになり、また、ものの生まれ方も新しくなった。

 

 そんな時代であり、テクノロジーは我々の想像を超え日々進化している。しかし、そのテクノロジーを運用している我々がその進化に追い付いていない状況をよく目にする。

 インターネット上で見かける「〇〇は△△に似ている」、「××は□□のパクリだ」などといった文面を誰しも一度は見かけてことがあるだろう。

 そもそも、これまでの産物は所謂パクリから生まれたものである。何一つとして例外なくゼロから生まれたものはないだろう。

 宇宙の誕生の大爆発であるビッグバンは無から突然起こったと言われているが、我々にそれを観測できる術がない以上、真実はわからない。(もっとも真実はいつだって主観でしかない)

 

 そのように先人たちは別分野の物事を組み合わせ、新たなものを創造し続けた。

 いつだってどんな時にでもパイオニアはいた。しかし、それは優劣ではない。

 

 現代では誰もがパイオニアになることができる。誰かがやるのではなくあなたが、私が、自分がやるのだ。

 この情報過多のカオスから、ピースをつなぎ合わせ、学び、気づかなければならない。

 すべての事象は必然であり、世界に映るものはメタファーである。

 今こそ常識を根底からひっくり返し、既存の概念のアップデートが必要である。

 一度世に出たものはミームとなり、共有物となる。

 発信した時点から所有者はそれを観測した全ての人々であり、発信者だけのものではなくなる。

 考えてみれば簡単なことだ。あなたがオリジナリティーだと思い、発信したことも、自分以外からミームを受け取り、取捨選択したうえで、手垢にまみれた自己アレンジを加えて世に放ったものだから。

 無論、私が綴るこの文字列も何かの影響を受け、選び、アレンジを加えたものに過ぎない。

 

 私も以前は自身の写真を無断で使用されていたことに、どこか気分を害していたが、それはその事象の受け取り方一つで変わるものであり、私は当時「無断転載禁止」などのミームによってその価値観が形成されていたことに他ならなかった。

 

 集団が知覚していることは違うようで同じであり、他人は自分であり、自分は他人である。我々は世界の中心に立っているのではなく、球体のフィールドにまばらに散らばっている内の一つに過ぎない。

 個人がそこに存在しているのではなく、この宇宙に存在しているあらゆる有機物、無機物が、一つの生命であるかのようである。

 

 哲学と心理学を大切にしてきた意味が分かったような気がする。

 

 今こそ世界の見方を変え、学び、気づき、再構築することが求められるだろう。