真実の必要性。
真実とは。
嘘やいつわりでない、本当のこと。まこと。真実は事実と同様で、皆が一致する一つの場合もあり、人それぞれに複数存在する場合もあるが、一般的には、他者との関係性を前提に社会で合意して共有できる皆が一致する、より公的で社会性を有する事柄を真実と言う。人間は社会を構成する前提がある社会的動物なのであり、真実は真実でもある事実の提示や自明な範囲で皆で一致し、共有されるべき事が求められる対象であるが、私的かつ個人的な範囲では他者と一致していなくても、その人物の主観という範囲での合意として真実と言えるが、人間が社会的動物として生きると言う前提がある以上、その趣での真実は他者との社会的な関係性の中で個人的な主観が許されない場合は真実ではなく、相手から見れば嘘ともなりえる危険性を孕んでいる。
なんだか回りくどい表現ではあるが、要はこういうことである。
- 皆が納得できるような根拠や事実の提示があり、それが疑いようのない場合。
- しかしながら、主観的な真実もあり得る。
- しかし、その場合は、嘘だと思われることもある。
といったところだろうか。
現在、我々が「真実」という言葉の意味を思い浮かべるときは、一番上に書いた内容のことを思い浮かべるだろう。
この「真実」という言葉の共通認識こそも、「真実」であると認めることができる。
常識なんてものも、ある程度の共通認識があることから、「真実」のように捉えることができるだろう。
しかし、それだけが真実ではない。
上記したように、主観の範囲で、その人が「真実」だと思っていることは、その人の中では「真実」であり、また同時に、客観的な「真実」がその人にとっては「嘘」となることもあり得る。
言っていることがよくわからないのは、まだあなたが常識や普遍的な概念である「真実」を疑ったことがないからである。
芥川龍之介の『藪の中』という短編をご存じだろうか。知らないという方は青空文庫にて読むことができるので、ぜひとも一読していただきたい。
複数の視点から同一の事象を描く内的多元焦点化(ジュネット)の手法がとられ、殺人と強姦という事件をめぐって4人の目撃者と3人の当事者が告白する証言の束として書かれており、それぞれが矛盾し錯綜しているために真相をとらえることが著しく困難になるよう構造化されている。その未完結性の鮮烈な印象から、証言の食い違いなどから真相が不分明になることを称して「藪の中」という言葉まで生まれた。
この物語では、当事者三人の証言が、それぞれ矛盾することにより、真実がわからない、という趣旨のものであり、実際、私も初めて読んだときは衝撃を受けた。
ここで扱う真実とは、共通認識による真実であるが、当事者三人にとっては主観に基づく真実を懺悔していることに過ぎず、誰かが嘘を言っているわけではないのである。
私は当初、三人のうち誰かが認識を誤ったと思えるようなトリックが文章中に隠されているのだと思っていたが、そもそも真実というものの見方に、絶対的な信頼を置いていたからに過ぎず、認識を誤っているのは紛れもなく自分自身だということに気が付いた。
何を言っているかわからないだろうが、そもそも真実なんてものは最初から自分の中にしかなく、それを誰も知り得ることはできないのである。
現代では、インターネットが発達し、科学で解明できることも増え、それが共通の真実だという思い込みの中で人々は生活している。
真実だと思われているものは、客観的に観測することができ、人々の中で感覚を共有できることから真実だと思われているだけに過ぎず、それは絶対的ではない。
それでも人は真実を追い求める。
では、真実を真実足らしめるものはなんなのか。
それを皆が見つけることができれば、人類、否、この宇宙全体の生物は幸せになることができるだろう。
世界はあなたであり、私であり、それは宇宙でもある。
見る角度を変えれば、丸が三角にも四角にもなり得る。
人は答えを求めるが、他人の手垢に塗れた答えは、あなたを本当に幸せにするだろうか。