杞憂、はたまた核心。

思考の嗜好性を垣間見せ

世界は狭いほうが幸せ?広いほうが幸せ?

こんにちは。

僕にとっていまのところ人生の命題なのですが、見えている世界は狭いほうが幸せなのか。それとも、広く世界を見ることができるほうが幸せなのか。

僕はもちろん世界は広いほうが幸せだと思うし、常々それを伝えているわけなのだが、狭い世界で自己完結している人もいるので、どっちの方がいいのかなと思いました。

 

そんなこと、個人の自由であることは重々承知なのだが、どうしても疑問が残る。

そもそも、かつての僕は今よりも見えている世界が狭く、割と自己完結していた。正直、それでも不自由なく生活することはできたし、あえて多くをせず、今あるものを深めようと思っていた。

実際、そうすることで、特定の分野について深く知ることができたし、おおむね満足していたのだが、それですべてが満たされることはなかった。

なんというか、自分がやらなかったことに言い訳をしたり、そんなもの必要ないと情報をシャットアウトしたり、自分のテリトリーから出ようとしなかったように感じる。

 

高校の頃までは、ある程度学校生活の中でやることを見つけることができたり、やることにある程度の制約があったりしたので、やることへの取り組みの方法や、それを他の友達より深めたりすることで、他人との差別化を図り、自分自身、ある程度の地位を確立していたと思うし、自分にも自信があった。

 

しかし、大学に入り、大学の雰囲気に馴染めなかったり、やることも自分で見つけなければいけなかったりで、理想の自分とのギャップを感じながら、しかしどうにもできない毎日を過ごしていた。

今感じると、やっぱり大学の頃の自分は魅力的ではなかった。

とにかくやらないことに理由をつけたり、それを正当化することで何とか自分を保っていた。まあそれも保てなくなったのだけれど、その話は割愛。

 

とにかく、何もしないことを正当化したり、否定したりすることは、結果的に自分の首を絞めることになるなと思いました。

否定した時点で、それに興味が湧いたとしても、それに取り組みづらくないですか?

現状、僕は今まで自分が否定し続けてきたものを今行っていますが、昔の自分のマインドを保ったままだと、他人からどう思われているか気になって仕方なかったと思います。

過去の自分は死んだと割り切らないと、ほとんどの方は自分が否定したことを自分はできなくなってしまうんじゃないかなと思います。

今だって、毎日のように芸能人や議員のスキャンダルがワイドショーで取り上げられているけれど、それによってたかって否定や攻撃する人は、自分がその状態になったときどうするんだろう。

そんなことには絶対ならないというだろうけれど、絶対なんてありえないし、状況によっても変わってくると思う。

これは不倫などのスキャンダルだけにいえる話ではなく、日常生活にも影響している。

例えば、これまで海外旅行を否定し、海外に行くまでに、日本をもっと知ったほうがいいなどと、正論じみたことをいっていたとしよう。その人がたまたま海外旅行に誘われたとして、海外なんて行く前に国内をしっかり旅行しよう、なんて言い出せるだろうか。

もし仮にそう言い出せたとしても、その海外旅行が無料だったら行くのではないだろうか。

そうだとしたら、海外旅行に行かない理由は、国内をもっと知ったほうがいいからというわけではなく、ただただ金銭的な問題なのではないだろうか。

また、その無料海外旅行に行って、それが本当に楽しかったりしても、これまで同様、海外旅行を否定することができるのだろうか。多分できないだろう。

 

つまり、自分の殻に閉じこもり、その世界だけで満足している人は、このような状況に出くわすとどうするのだろうかという疑問がある。

人間、他者と関わり生活していれば、生きているだけ世界が広がる気づきや経験をすることとなる。

人間は一人では生きていけない。必ず他人と関わり、その都度、新しいことを知る機会が訪れる。

それを否定し続けることはできるのであろうか。

僕は無理だと思う。いつまでも同じコミュニティに身を置くことは簡単であり、非常に楽であるが、それで満足できる人はそう多くはないのであろうか。

なんとなく現状に不満を抱くが、どうしたらいいのかわからないと感じるのではないだろうか。

 

そこから抜け出す方法は一つしかない。

何事も否定せず、知らないことは学んだり、経験することである。

また、すでに知っているものでも、別の見え方を発見できるかもしれない。

 

世界を広げるとはそういうことである。

一歩踏み出してみんなで幸せになろう。

遊ぼうぜ!!