杞憂、はたまた核心。

思考の嗜好性を垣間見せ

TPO。

事あるごとにTPOをわきまえろと言われてきたような気がする。

しかし、私はどんな時でもTPOをわきまえているつもりだ。

 

この間、職場内の研修があったが、その時の私の服装はラフなものだった。

研修自体は滞りなく進み、何事もなく終わりを迎えようとしていた。

その時である。

ふいに私の服装が指摘された。

どうやら、「スーツに準じた格好をしてこい」ということらしかった。

ちなみに、私以外の同僚は皆スーツを着用していたのだが、私はどう考えてもそうする必要性を見出せなかったから、そのままの格好で参加した。

 

私は空気を読んでスーツを着用することもできたが、それはTPOとは全く関係ないことだと感じている。

TPOをわきまえることは空気を読むこととは似て非なるものであるからだ。

TPO。つまり、時と場所と場合に即した行動や服装を選択するということだが、これは強制されるものや、形式化されるものではないからである。

そもそも選択とは、内発的なものであり、外発的な同調圧力などによって行われる行動ではないからである。

他人に不快感を感じさせたり、迷惑だと思われたりしないような、それでいて自分が気持ちよくいられる格好であればそれでいいんじゃないのか。

 

服装こそその人の人間性が色濃く出るものだと思う。

それなのにスーツという形式にこだわることは、服装が持つ役割を全く生かせていない。

百歩譲ってスーツが指定されていたとしても、その中で自分の思想性や人格を大いに発揮できるようなコーディネートで臨むべきだと思う。

全員が同じ服装、髪型で、座って質問に答えるだけの短時間の面接なんかで、その人のことなんてほとんどわからない。

それだったら、一張羅でどんな表現を使ってもいいから、その人の思いや興味関心、趣味、野望などを聞かせてほしい。

そうじゃなければ面接なんてほんとにクソの足しにもならない。

 

空気を読むことは、それ自体に何の価値もない。

その空気よりも素晴らしいと感じるものを信じ続ける。

それこそ一番素晴らしく、TPOをわきまえていると思う。

 

私が考えるTPOをわきまえるということはこうだ。

他人に危害を加えることなく、自分自身を最大限発揮できる状態。

これしかない。

だから、もう不毛な空気の読み合いはやめよう。

また、そのように外部に自分の思想を委ねるのもやめよう。

本音で生きよう。