杞憂、はたまた核心。

思考の嗜好性を垣間見せ

人は生まれながらにして平等なのか。

人は生まれながらにして平等ではないだろう。

そう思っている人は結構多いんじゃないでしょうか。

 

そんなものは理想論だと思ったり、経済的に豊かな家庭に生まれれば、その時点で勝ち組だと思われたり。

 

そんな思想の人は結構多いと思います。

 

しかし、一度立ち止まって考え直してみましょう。

そもそも「平等」とはどういうことなのか。

我々は言葉を自由に使用してると思いがちですが、実のところ、言葉の意味を明確に定義付けられる人は少ないのではないかと思います。

 

平等とは簡単に言うと、「皆が一様に等しい」ということです。

しかし、ほとんどの人はやっぱり平等ではないと感じます。

かといって、「人は生まれながらにして平等である」という前提が間違っているというわけでもないのではないでしょうか。

 

僕は、ここに認識の違いがあるのではないかと思います。

 

多くの人が思っている平等というのは、主に経済的な側面が大きいと思います。

 

ごく僅かな資産家が多くの富を蓄えていて、大多数が残り僅かの富を分配しなければならない。

金があるから自由に振る舞える。

そんな風に思っているのではないでしょうか。

 

実際、それなりにお金というものは大切だとは思いますが、それではあまりにも拝金主義的であり、それが故に共産主義的な考え方とも言えます。

 

しかし、本当に経済的な面に対し、平等を謳っているのであれば、ほとんどの国家は共産主義国家になっているはずです。

 

それでも、現状、資本主義国家が多数派ということは、ここで掲げられている「平等」とは、経済的な平等ということではなさそうです。

 

では、一体なにが平等なのか。

 

ここで、世界人権宣言の内容を確認しましょう。

第一条
 すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

 

ここにある程度納得のいく答えが記されています。

 

平等の正体とは、「尊厳と権利」についてです。

「尊厳と権利」については、また機会があれば考えたいと思いますが、とりあえず今回は平等の正体について考えましょう。

 

我々が思っていた平等と本質的な平等が、全く別の意味合いで存在していました。

 

平等とはつまり、有様ではなく、権理通義のことなのであります。

 

これらについては、福沢諭吉著『学問のすすめ』に詳しく書かれているので、是非ともご一読ください。

 

 

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

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