杞憂、はたまた核心。

思考の嗜好性を垣間見せ

国民総情報弱者時代。

なかなか攻め込んだタイトルだが、僕は喫緊の課題であると思っている。

 

そもそも、情報弱者とはどのような人のことを言うのか。

情弱(じょうじゃく)はもともと「情報弱者(じょうほうじゃくしゃ)」の略称だが、この意味で使われることは少なく、インターネット上などでは別の意味で用いられることが多い。

1.情報弱者。情報環境が良くない場所に住んでいたり、情報リテラシーメディアリテラシーに関する知識や能力が十分でないために、放送やインターネット等から必要な情報を享受できていない人。 → 情報格差を参照。
2.転じて、各種の情報に疎くて上手に立ち回れない人を揶揄して言う言葉。 → インターネットスラング#蔑称などを参照。

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/情弱

この日本に住んでいて、1の意味のような情報弱者の方は申し訳ないが論外である。

論外とはなかなか辛辣な言葉ではあるが、そもそもこの意味での情報弱者の方々は、このブログ記事にすらたどり着けないので問題ない。

 

とにかく、このブログを見ることができているあなたは少なくとも1の意味の情報弱者ではない。安心してくれたまえ。

 

しかし、問題はこの2の意味での情報弱者である。

僕は揶揄するつもりでこの言葉を使うことはないが、実際にこの意味での情報弱者は多いと感じる。

 

情報は携帯、スマートフォン、パソコン、何かしらの電子端末機器を持っていれば、容易に手に入れることができる。

それらがなくてもテレビなどで情報を手に入れることはできる。

新聞だって本だってなんだっていい。

 

我々は常に多くの情報を手に入れる機会がある。

 

しかし、その情報をうまく活用できているか、と聞かれれば、容易に頷くことはできないだろう。

 

つまり、僕が思う「情報弱者」とは、メディアリテラシーが欠如している人のことであり、その人の数はかなり多いのではないかと思う。

 

メディアリテラシーの欠如の要因

メディアリテラシーの話に入る前に、メディアリテラシーとは何かを定義する必要がある。

メディア・リテラシー(英: media literacy)とは、世の中にある数え切れないほどの沢山の情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/メディア・リテラシー

要は情報を正しく読み取る力のことである。

 

さて、では何故このメディアリテラシーが身についていない人々が多いと感じるのか。

それにはいくつかの要因があるはずである。

その要因を一つずつ考えていきたい。

 

こんなことを言ってはなんだが、そもそもこの考えるということがメディアリテラシーを培うために非常に大切なことだということを言及しておく。

 

まず、僕が考える第一の要因は「時代の変化」である。

時代の変化と言ってしまうとかなり抽象的であり、元も子もないじゃないかと思う人がいるかもしれない。

しかし、時代の変化と言われても、具体的にどのように変化し、過去の我々と現代の我々では何が違うのかを明確に理解している人はほんの少数ではないか。

 

僕たちは時代が変わっているということはなんとなく理解しているが、そこに正面から向かって何が変わったのかを考えたことがある人は少ないのではないか。

僕が伝えたいことはまさにそのことである。

 

人は漠然とした概念をなんとなくわかった気になる傾向がある。

国語の文法なんかが最たる例であり、普段何気なく使っている日本語を文法的に解釈しようとすると全然分からなくなるような感じである。

なんとなく理解して日本語を使っているが、それを一つ一つ意味づけをしようとした途端、訳が分からなくなってしまう。

 

それほど、我々は普段からわかった気になっているものに囲まれて生活しているということだ。

時代が変わったと言われるとなんとなくは理解できるが、どのように変わったのかと問われるとうまく答えられない人がほとんどであるのも無理はない。

 

では、実際に時代はどのように変わったのか。

一番大きく変わったことは、やはりインターネットの登場であろう。

ほとんどその一点に収束すると言っても過言ではない。

 

これまでの時代では、人々が情報を得る手段は人から教えてもらうことか、本などの媒体を介してのみであった。

その結果、学校ができ、地域のコミュニティもでき、国家的な教育が行われていた。

 

人々は情報を得るために国家や地域、家庭などのコミュニティに留まるほかなく、そこには縦の関係があった。

 

教えを請わなければ学ぶことができない。

人々はその個人が持つ能力により、その人価値を決定していた。

教師と生徒という縦の関係。

職人と弟子という縦の関係。

上司と部下という縦の関係。

その場で生きていくには能力のあるものに従わなければいけなかった。

その場を共有する人達でしか、その人達の価値を見出すことができなかった。

かなり閉鎖的な時代であった。

 

しかし、現代では誰もが自由に思想を発信でき、それを共有できるようになった。

能力だけ高い人間に対して、団体で交渉できるようになった。

それだけでなく、全ての人が全ての人の価値を実感することができ、また、学習も電子端末一つでできるようになった。

もう理不尽な権力に従わなくてもいいのである。

インターネットを介して情報を手に入れることができるようになり、誰でも知識を習得することができるようになった。

 

これは人々の可能性を大きく肥大させることになった。

 

しかし、ここで一つ問題が生じる。

時代は変わり、情報革命が起こったが、人々の意識はまだ革命が起こっていないのである。

つまり、未だに人々の思想は前時代的だということである。

 

とはいっても、近年、ものすごいスピードで時代が変化したことは否めない。

人々の思想がそれに追いつかないことも無理はない。

 

しかし、だからといって進むことをやめる理由にはならない。

 

人々は進まなければならない。

これまでは知識の伝達にコストがかかっていたが、現代ではほぼノーコストで知識を得ることができる。

つまり、これまで知識を得るために使っていたコストを、他のものに使用することができる。

 

一体、その他のものとはなんなのか。

無論、「教養」である。

 

「教養」とは、知識を活用する力である。

活用とは、主に実生活に役立てるという意味で使われることが多い。

 

しかし、これまで知識を得ることに重きを置いていた人々は、「教養」の大切さに気付いていない。

 

実際、子どもの学習指導をしている時によく感じるのは、

彼らはとにかく答えを知りたがるということだ。

解き方なんてものは興味がなく、ただただ模範解答を求める。

 

これは現代的な知識の習得方法と、前時代的な教育が招いた最悪の結果である。

未だに学校では答えを求め、子ども達に模範的な行動をとらせたがる。

そもそも模範的とはなんなのか。

そこに疑問を持つ子どもは多いと思うが、それを解決する方法を知らないのである。

つまり、答えの求め方は知っているが、解き方は知らず、また、それの活用もできないという最悪の状態が現代の教育である。

 

これを解消するには、まず大人が自身の教養のなさに気づき、メディアリテラシーを高めなければならない。

このままでは非常に日本が危ない。

 

教養を高めるために

ではどうすれば教養を高めることができるのか。

それは質の高い対話である。

個人でも深く掘り下げることができる人間は一定数いるが、多くはないだろう。

そもそも、ほとんどの人は自分が何も知らないということを知ってすらいない。

かのソクラテスが唱えた「無知の知」である。

 

知的好奇心の赴くまま、物事を掘り下げていければ、「教養」は自ずと付いてくるだろう。

しかし、これまでそれができなかった人たちは、おそらくこれからも難しい。

とにかく、この時代に置いて必要な能力は「教養」である。

 

だから、とにかくひたすら誰とでも対話し、疑問を掘り下げよう。

 

近々、個人的に対話イベントを開催したいと思っているので、興味がある方は是非とも来ていただきたい。

共に深い学びを、気づきを共有しましょう。

 

ではでは本日はこの辺で。

 

P.S. 要因を一つ一つと言ったが、結局言いたいことは「時代の変化に順応すること」でした。

要因も「時代が変わった」これにつきます。