杞憂、はたまた核心。

思考の嗜好性を垣間見せ

無知と神と宗教と。

 宗教、日本人には馴染みのないものである。

 斯く言う私も宗教に詳しいわけでは無い。

 大体の人は「よくわからないけどなんだか危険なもの」や「信者が怖い」などという印象を持っていることだと思う。

 しかし、その感情こそ宗教が産まれた理由なのかもしれない。

 

日本と宗教 

 先ほど日本人にとって宗教は馴染みがないといったが、それは何故なのか。

 それには宗教の起源が関連しているのではないかと思う。

 そもそも宗教とは既にそこにあるものとして考えている人が多いのではないか。歴史の授業ではキリスト教イスラム教、仏教などが存在しているよ〜と教えられ、それらの宗教の特徴を教えられた。仏教の宗派も様々なものがあると教えられ、また、それらの特徴を教えられた。

 これは学校教育の悪いところではあるが、宗教に限らず、学習のほとんどの場合において何故それが成り立つのか、何故これを学習しないといけないのか、という起源を説明せず、あたかも最初からそこにあったかのように教え込まれる。これは考える力を奪ってしまいかねない。

 実際、私もつい最近までは、宗教の起源や役割に何ら疑問を持たずに生きてきた。正に最初からそこにあったかのように接してきた。

 これは非常に怖いことである。今回は宗教を例に挙げたが、何故そこにあるのか、何故必要なのかを考えることもなく、ただ何となく否定的な感情を抱いてしまう。危険極まりない。

 そんなことは考えなくてもいいじゃないかと思われる人もいるかもしれないが、そういう人がイジメとか起こすのだよ。まぁしかし、あまり考えすぎるのもよくないが、何も考えないのは良くない。

 すっかり話が逸れてしまったので話を戻そう。

 何故宗教が産まれたのか、それは人が「無知」な生物だからである。

 

現代と宗教

 我々人間は「無知」な生物である。

 現代は情報化が進み、家にいながらでも外の様子がわかるし、日本にいながら世界の情報も取得することができる。

 全く便利な世の中である。大体のことはインターネットで検索すると知ることができる。それほど情報に囲まれた生活を送ることができている。

 しかし、それだけ膨大な情報に囲まれていながらも、我々は全てのことを知っているわけではない。それは当たり前だろうと思う人が大半だろう。しかし、その当たり前を意識して生活を送っている人がどれだけいることか。私はそう多くないと思う。

 何故なら大体のことはインターネットを介して知ることができるからである。

 ほとんど私達の脳はインターネットに依存しているといっても過言ではない。

 調べることである程度の情報が得られる。正にインターネットは全知全能の神のような存在であろう。

 現代の我々はその便利さにあやかり、さも何でも知っているかのように振る舞うことができる。自らが何も知らない無知な生物ということを忘れて。

 しかし、もう少し昔になるとまだインターネットは発達しておらず、現代のSNSのような不特定多数と繋がることができるコミュニケーションサービスは存在しておらず、メールなどの特定の人物と繋がることができる閉鎖的なコミュニケーションが主流だった。

 それでも当時は、離れていても手紙をすぐさま送りあえる画期的なテクノロジーであった。それまではもちろん文通などが主流だったからである。

 少し話がそれてしまったが、この話が何故宗教に結びつくのか。

 そもそも宗教とは人知を超えた超常的な現象を、神という超人的な存在を作り出すことによって論理性を得る為に作られたものだと私は思う。

 超常的な現象といっても現代の我々にとっては「常識」という一言で片づけられてしまうような取るに足らない現象である。病気や災害など。

 現在はそれらのメカニズムが解明されることによって、知識として知ることができるが、当時の狭いコミュニティで、情報は噂で伝わり、なおかつテクノロジーも発達していない時代においては、それらはどれほど畏怖されたことだろうか。

 そこで生まれたのが宗教である。原因不明の現象に意味づけをしたのである。そうだと信じるしか他になかったのである。

 現代では、わからないことよりわかっていることのほうが多くなってきている。ましてや、身の回りのことはほとんど解明されているといっても過言ではない。そのような環境に慣れているからこそ宗教は我々から遠いものとなってしまったのではないか。また、日本は島国という点においても宗教が流行っていない原因だと考えられる。

 ほとんどの国々は、陸続きの大地に国境があり、常に他国と隣接している。それだけにとどまらず、様々な文化を持った様々な民族が入り混じっている国もある。そのような国ではルールが曖昧であり、何を信じればいいのかわからなくなってしまうだろう。そこで信じるものが「宗教」なのである。

 人間には生涯でこの国で起きている全てのことを知ることはできない。しかし、人間にも力のある者、ない者、様々な人間が存在している。しかし、力があるからといって何をしてもいいかということはない。時には理不尽な暴力もあっただろう。そんな中で何が正しいのか。人間だけでは答えが出せないのである。そこで超人的な「神」の存在が必要になったのではないか。

 

生き方と宗教

 「神」や「宗教」といってしまえばなんだか取っつき辛い印象だが、詰まる所、その人それぞれが持っている「ルール」なのである。このルールを持っているからこそ海外の人は自分の主張が強いのだろう。しかし、日本人は個人のルール、つまり宗教を持たない人が圧倒的に多い。そのことから主張せず、周りに流される人が多いのではないか。

 現在日本人に求められていることは、自分なりの宗教を持つことではないだろうか。自分で宗教を作り上げるのである。

 我々は無宗教だといったが、広い意味では世間の思惑という宗教に入信している。国家的な宗教だといえる。

 このことをどう受け止めるのかは人それぞれではあるが、今一度考えてみるのもいいかもしれない。今まで見えなかったものが見えてくるし、様々なものの繋がりを感じられることも増えると思う。

 すべての現象は繋がっている。一見自分には馴染みない、理解しがたいことが起きようとも、意外と答えは身近にあったりする。

 何が言いたいのかというと、繋がりを感じて、否定するのはやめましょうということだ。否定は強制的に道を閉ざすものであり、何も生まれない。ましてや一度否定してしまうと、それを肯定することは非常に難しくなってしまう。それは、巡り巡って自分に返ってくる。なぜならすべての現象は繋がっているから。

 もっと楽に、寛容に生きましょうよ。出る杭を打つのは楽しいかい?

 ではでは。