杞憂、はたまた核心。

思考の嗜好性を垣間見せ

結婚という名の契約。

結婚。

端的に言えば、男女の仲を社会的に認めることである。

こう言えば、あまりにも悲観的な雰囲気ではあるが、実際のところそういう側面は大きいと思える。

 

現在、報道の多くが、有名人の不倫報道になっている。

私はそもそも不倫に目くじら立てて、非難すること自体が不毛であると思う。

たかだか書類一枚を役所に提出しただけで、一生涯その人と付き合い続けなければならないというのは、どうにも腑に落ちない。

と、こんなことを言うと、倫理観の欠如した不道徳者だと思われるかもしれない。

しかし、今一度考えてみてほしい。

我が国で一夫一妻制となったのは明治31年のこと。

わずか、100年ちょっとの歴史しかない。

そりゃぁ、そうせざるを得ない理由はもちろんあったのだと思う。

しかし、それまでの少なくとも1900年頃までは、そうでなかったのが通説だった。

だからといって、一夫多妻がいいと言うわけではない。

そういうことではなく、流石に結婚したからといっても、人間の本質的な部分は変えられないのではないかということだ。

結婚してきた人の中にも、結婚するまでに多かれ少なかれ、様々な人を愛してきたと思う。

それが愛に満たないものであっても、好きという気持ちは、ほとんどの人が経験したことがある感情だと思う。

 

 人は人を愛することによって、初めて自我を強く意識する生き物だと思う。

その愛を一人に捧げるべきだという理論ももちろんわかる。

しかし、本当にそれだけが正しいのだろうか?

そうでない気がする。

というよりは、他にも正しさはあってもいいと思う。

もちろん、愛は独りよがりではダメだと思うので、双方の合意は必要であると思う。

しかし、それよりも気持ちが先走ることもあるだろう。

つまり、何が言いたいのかというと、結婚した所帯持ちの人が、その相手以外の人を愛することを、一括りに不倫という現象で表してしまうのはなんだか悲しいと思うのだ。

 

実際、そこには「欲」しかない浮気なのかもしれない。

しかし、「情」があるのかもしれない。

それはもちろん当事者にしかわからない。

だから、そもそも他人が口を出す必要は全くないのだ。

思慮の浅い正義感が文化を殺す。

不倫から生まれる文化があったっていいと思う。

それを理解できないのならば、理解しなくてもいい。

だけれど、頭ごなしに否定する必要もないんじゃないか。

それによって自分は何か不利益を被るのか?

そうでないのなら、決して口出す必要はない。

 

結婚がそんな陳腐な契約であるのならば、私は結婚しなくてもいいと思う。

人間関係に契約書は必要ない。

そんな陳腐なものであってたまるものか。

どうか、愛が溢れる世の中になりますように。