杞憂、はたまた核心。

思考の嗜好性を垣間見せ

AITOWA

前回は「恋愛」について書かせてもらったが、皆さんの期待に応えることはできただろうか。

個人的には、当初書こうとしていた「恋愛」の価値・テクニック(?)のようなものに全く触れられなかったので、少々不完全燃焼気味ではあるが、それ以上になかなか面白い考察ができたので満足である。(自画自賛

 

そんな前回の記事をまだ見ていない方、一度目を通して頂ければ幸いです。

xizxsaxixyoxa.hatenablog.com

 

さて、今回は前回書けなかった「恋愛」について書かせていただこう。

前回あんな仮説を立てたけれども、結局どんな人でも入り口は「恋愛」であり、「愛」であるのではないか。

そんな「」について、考えを深めましょう。

 

愛とは。

さてさて、「愛」について語らせていただきますが、そもそも「愛」とは何なのか。

普段何気なく「愛」という言葉の意味を理解しているつもりではあるが、実際に「愛」とは何なのかと質問されて具体的に答えることができる人はほとんどいないんじゃないでしょうか。

というわけで、今回もWikipedia先生にお世話になりましょう。

Wikipediaを見てみると、やはり曖昧な説明が羅列されているが、その中で興味深く、僕が「愛」に対して抱いている価値観に限りなく近い記述があったので、それを紹介しておこう。

相手が幸せでいてくれればいいという気持ち。

これである。この一文にすべてが集約されているといっても過言ではない。

この「相手が幸せでいてくれればいいという気持ち」について、これから論じていきたいと思う。

 

相手の幸せは自分の幸せ。

さて、早速宗教臭えと思った方が少なからずいらっしゃると思う。

しかし、そう思っている方はもしかすると「宗教」や「愛」について、少なからず偏見があるのではないかと思う。

もしかすると、そういった偏見自体がある種「偏見教(もしくは懐疑教)」のような「宗教」なのかもしれません。

まあ、そんなことはひとまず置いといて、とりあえずフラットな視点で見ていただければ幸いです。

 

見出しにパワーワードと言わざるを得ない文言を記したが、そもそも人間はどんな時に「幸せ」と感じるのか。

「幸せ」の定義は人それぞれであり、一概には言えないものではあるが、その「幸せ」は一時的なものではなく、継続して常に感じられることが望ましいと思う。

しかし、人はある程度幸せを享受することを限定し、その一時的な快楽の為に日常を犠牲にすることを厭わない傾向がある。

代表的なもので言えば旅行に行くことや、美味しいものを食べる、欲しいものを買うなどである。

だが、やはりそれは一時的なものであり、継続するのは難しい。旅行など、ほとんどの人は月に一度も行けないだろう。

また、食事や物品の購入などは、比較的容易に行えるが、得られる幸福度(?)が少なく、暴飲暴食を繰り返したり、少しだけ欲しいと感じたものを何度も購入してしまったりする傾向があり、その度自己嫌悪に陥る人が多いのではないか。

僕自身もそんな経験はあり、酒を飲みすぎて次の日嫌になったり、買ったはいいものの全然使わなくて勿体無いなぁと感じることなどこれまでたくさんあった。

それでも人が何度も繰り返すのは、その「幸福」の享受が容易であることがまず第一の要因であるだろう。

 

しかし、もちろんそれだけではない。

厳しい言葉で言えば、「幸福」だと感じる事象・行為があまりにも身近にないという場合である。

端的に言えば、私生活が充実しておらず、手の届く範囲の充実を求めた結果なのではないか。

あくまでも推論の範囲だが、なんとなくそんな経験を皆してきたと思う。

 

さて、もしそうだったとしたら「幸福」は消費され続けなければならない。

幸福はインスタントなものでもなければ、モーメンタリティなものでもない。

我々が幸せを享受し続けるにはどうすればいいのか。

 

そう、「愛」こそが幸福なのである。

 

愛、永遠。

愛とは。改め、「愛、永遠。」

何故「愛」こそが幸福なのか。

決してこれから話すことは宗教でもなければ、理想論でもない。実現可能なリアリズム的発想である。

 

そもそも「愛」とは、冒頭でも説明した通り「相手が幸せでいてくれればいいという気持ち」であり、相手が幸せであるということは自分も幸せでいれるということである。

文字にすると凄く簡単なことなのだけれど、いざ実行となると非常に難しい。

 

何故なら人は常に無意識のうちに競争状態にあるからである。

しかし、無意識下なのでそれは意識すれば変えることができる。

 

「競争状態」とはどういう意味だろうか。

例えば「嫉妬」なんかは最たる例である。

「嫉妬」の感情は無くならないんじゃないかと思われるほど、人々は嫉妬する生き物である。

 

では、何故嫉妬をするのか?

そこには自分と比べ、他人の方が優れているところがあるからである。

否、優れていると思い込んでいるからである。

 

そもそも、優れているとはどういうことなのか。

嫉妬の最たる例である「恋愛」で言えば、自分が好きな人が、自分以外と楽しそうにしていたりすると嫌な気持ちになったりすることがあるだろう。

その時、何故嫉妬するのか?

それは、自分ができないことを他人にはできているからである。

その時点で競争相手は他人ということになる。

 

もう少しわかりやすく言えば、他人に対して劣等感を感じている。

しかし、この劣等感は非常に危険で、その他人を敵とみなしてしまう。

本当は自分の不甲斐なさに苛立っているのに、わかりやすく他人にその苛立ちをぶつけてしまう。

 

恋人との関係もそうであり、自分の恋人という認識から自分は他人と違う特別な人間だと思い込み、その特別な地位が脅かされると、他人や恋人自身を責めてしまう。

 

つまり、自分と他人を比べ、その中で上下を作ることが嫉妬に繋がり、その価値観を持ち続ける以上、他人は常に自分の敵となり得るのである。

 

そのような人には他人を愛することは難しいだろう。

それでも愛しているという人は、本当の意味での「愛」を理解できていないのかもしれない。

 

何故なら「愛」は自分の存在はなく、そこにあるのは「私達」だけなのである。

 

「I」ではなく「We」であり、「You」なのである。

 

さて、ナンノコッチャワカランと思う。

あまりにも話が飛びすぎているからだ。

しかし、ここに全てを書ききることはできない。

また、これは対話の中で理解していくものだと感じている。

 

しかし、既存の価値観を一度ひっくり返し、新たな視点でものを考えることが求められている。

これも例外ではなく、理解ができないものには一度これまでの考え方を変えることで見えてくることもあると思う。

 

とにかく僕が言えることは、「愛」こそが全てであり、それは「永遠」であることだ。

 

とはいう僕もまだその境地を心から理解はできていない。

それにはまだまだ経験や実感が足りていない。

 

だから、その経験や実感を得るために何かをやらなければならない。

 

そこで、一度皆で話ができるようなイベントを開催するつもりだ。

詳細は後日発表するので、良ければまた見ていただきたい。

 

とにかくそれまで一人一人「愛」について考えていただきたい。

みんなで世界を変えよう。

「愛」に溢れた世界にしよう。

 

 掲げろピースサイン✌️

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