杞憂、はたまた核心。

思考の嗜好性を垣間見せ

雨と無知と温故知新。

 

 はろー。いかがお過ごしでしょうか?

 毎日天気が良くていい気分だけれど、とうとう明日天気が下り坂みたいだね。梅雨のシーズンホント勘弁してくれよ。

 晴れていたら出かけて写真を撮ったり、陽気を感じたりいろいろできるのになあ。

 しかし、そもそもなんで雨の日が嫌なんだ?まあそりゃあいろいろあるだろうけど、髪の毛が湿気で終わったり?服が濡れたり?傘ささないと濡れちゃうし?そのさしてきた傘を盗む輩もいるし?雨の日は人間の心まで曇らせるのでしょうかね?

 

 そんな現代ではあまりいい印象を持たれていない雨ですが、昔の人はそんな雨に思いを馳せ、風流に歌い上げていたものです。

 

おほかたに さみだるるとや 思ふらむ 君恋ひわたる 今日のながめを

和泉式部日記」/和泉式部

(あなたはこの雨を普通と変わらない五月雨だと思っているのでしょうか。あなたを想う私の恋の涙であるこの雨を。)

 

 なんとも言えぬ奥ゆかしさ。現代ではあまり見られない感覚ですね。また、「ながめ」が「眺め」と「長雨」の掛詞となっているのも趣深い!

 しかし、何故このような雨との向き合い方が現代では見られないのでしょうか。

 

 雨が映える情景はやはりなんといっても自然のある場所だと思います。となりのトトロのような田舎の風景や、日本庭園にもぴったりじゃないでしょうか。

 しかし、現代ではそのような場所はほとんど生活圏には存在しておらず、都心部に住んでいる人はなおさらだと思います。コンクリートジャングルに降りしきる雨に、美を見出すことは困難でしょう。さらに都心部では時間の流れも速く、建物の中では晴れでも雨でも天気を感じることはほとんどないので、雨は生活を不便にしてしまう現象ととらえられているのではないかと思います。

 それは、悪いことではなく自然の摂理だったのかもしれない。便利になったことで恩恵もたくさん受けていて、それによって淘汰されたものも数多くある。雨に趣を感じないようになったのも、またその淘汰されたものの一つでしょう。

 

 雨だけでなく高度情報化社会の現代では、流行のサイクルが非常に早く、欲望を求め、生き急いでいるように感じる。いつでも、どこでも、だれでも、どんなことでも、そこに制限はなく、求めた欲求が叶う時代です。

 雨が降っていると外出できないなんていうことは現代では考えられません。公共交通機関は雨でも利用できます。非常に便利な世の中ですねえ。

 昔のように雨に思いっきり濡れて遊ぶなんてことももうできないのかもしれない。それはそれでなんだか寂しいような気がする。

 便利になり、物事がどんどん普遍化していき、そのなかで失われたものもたくさんあるが、それらは本当に失われていいものなのか私にはわからない。今までの歴史を辿ってみると、このような進化の過程で淘汰されていったものももちろんたくさんある。しかし、現代では過去の歴史が示すような進化の過程を辿っているわけではなく、そのサイクルが非常にハイスピードである。

 十分に取捨選択する時間さえも与えられないままに情報が非常に溢れている。その上社会は人々に普遍性を求める。それじゃあ自分でものを考えることなんてできないし、個性なんて芽生えるわけもないよね。

 こんな時代だからこそ「古きを温め、新しきを知る」必要があるんじゃないでしょうか。やっぱり孔子はすげえな。紀元前6世紀から現代まで通じる教えを説いていたんだから。それを知るだけでも学校教育で歴史を学ぶ意義があるんじゃないかと思うよ。

 

 当初書きたかった着地点とは少しずれてしまったが、これはこれで大事なことだと思う。こんなことを偉そうにいってはいるが、私自身雨は嫌いだ。やっぱり晴れていた方がいい景色だし、何より快適だからだ。だからといって、「晴れが好きだから雨は嫌い」という考え方になっているような気がしていた。雨乞いなんて言葉があるくらいだから、雨を望んだり、雨が好きな人も必ずいるはずである。

 今まではそこに気づいていなかった。また、雨が嫌だと感じている理由の大部分は不便だからである。まさに現代の負のスパイラルに毒されているなと思った。

 そのことに気づいたときなんだかだせえなという気分になったし、そんなことで毛嫌いするのももったいないと感じた。だからこれからは雨を肯定的に捉え、雨の日だからこそ感じられるものを見つけていきたい。

 もちろん雨のみならず様々なことに気づき、見えていなかった側面に気づきたい。

 

 知らなかったことを知るためには、まず自分が何も知らないという自覚をもって物事に接しなければいけない。世界はいつだって主観的で、自分から見えているものや現象が全てではない。だからありとあらゆる見え方が存在していることを念頭に置かなければならない。

 これは意識しないと難しいかもしれないが、意識し続けているとそれは習慣となる。マザー・テレサもこのようなことを言っていたらしい。

 ちなみに知らないことを知る、いわゆる「無知の知」はソクラテスの言葉であるが、これは私の座右の銘である。

 さらに付け加えると、孔子の言葉にも「知らざるを知らずとなす これを知るなり」というものがあり、儒学が教養として身につけていた時代があったことには納得である。

 

 とにかくものは見方ひとつで見え方が180度変わることもあるということだ。

 ことわざにも「急がば回れ」や「急いては事を仕損ずる」、「善は急げ」など、急いでいることの捉え方がこれほどまでにも異なった表現があるように、ものを見る角度によってそれに自分がつける意味合いはどうにだってなるということだ。

 悩みだってものの見方次第でどうにでもなるものがほとんどだと私は思う。

 大事なのはその現象に対してどのような意味づけを自分がするかである。

 誰かが基準ではなく、自分が基準である。こんな普遍的な時代だからこそそれに抗ってみるのもいいかもしれない。一度しかない人生、自分の人生を生きなきゃもったいないぜ。これは自分にも言い聞かせます。

 人生は選択の連続だ。変わらないことも変わることも選択の結果。ただなんとなく流されて生きるんじゃなくて楽しみましょう。

 まだまだ若い。これからの若い世代が時代を変えなければいけない。そのために私は今日も思考の指向・嗜好・志向性を垣間見せます。

 結構いい頃合いで着地できた感があるので、今日はこの辺にしといてやるか!!

 なんとなく思ったことを書き出したけれど、意外と書ききれるもんだな(笑)

 それではまたの機会に!

 

 P.S. auスマートパスプレミアムの毎日もらえる!で、火曜日はミスドの200円券なのですが、今日21:30頃に22時まで営業している店舗にワクワクしながら買いに行ったら、閉店していました…。悔しい…。